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化け猫地蔵堂 2巻 3話 川船女郎

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「この仕事を始めてまだ十日。これから先、一晩に何人もの客を相手にしなきゃいけねえ身だ。いい男で鼻筋がとおってて、ちっとぐれえ優しかったからっていちいち気い入れてたら商売になんかならねえ。だいち、おめえのからだがもたねえ」
 また舟が揺れた。
「あいてて、ひっかきやがった」
「海老造さん、のぞいてたんだね。なんて男だい」
「のぞいてただと? ばか言うんじゃねえ」
 海老造の声がこわばった。
 タキは弱々しく見えるが、芯はしっかりしていそうだ。
「あのな、おれにはな、覗いたりなんかしなくたってみんなわかんだ。とにかく、どういうことなんだか、話してみな」
「あのう」
 タキが素直に海老蔵の主張を認め、うなずく。
「伊勢吉さんて人、故郷にいるわたしの許嫁の義作に似てたから、つい義作に親切にされてるような気持になって、そうしたらむこうもうんと優しくしてくれて‥‥」
 タキが口籠もった。
 下をむき、口先をすぼめたような言い方だった。
「あのなタキ。おれたちは商売をしてんだ。これからもいろいろ教えるけど、義作に似ていようがいまいが、男なんか蚊ぐらいに考えて、あ、おって、わざと騒げるようにならなきゃだめだ。この道三十年のおれの言う通りにしてれば、おめえの器量なら二年もしねえうちに故郷に帰れる。

とにかくおれに背くような真似は絶対に許さねえ。ところでおめえはまだ江戸にきたばかりでよく分からねえだろうけど、伊勢吉って男の店ならおれはよく知ってる。この手拭の菱形の模様は菱屋っていう海産物問屋のもので、店はすぐそこの日本橋にある。どうだおめえ、自分で二両、届けに行ってみるか?」

 突然の提案だった。口調には、思惑のありそうな含みがあった。
「わたしが自分で? 行ってもいいの?」
 タキが、とまどったように訊ねた。
「いいよ。だがちょっと聞きな」
 海老造が声をおとす。

「菱屋にいったら、そっと伊勢吉を呼び出すんだ。それで、忘れ物を届けにきたと言ってこの金を包ごと渡すんだ。それだけでいい。それがすんだらすぐに帰ってきな」
 海老造の口の端に笑みが浮んでいる。

 よく訳のわからないタキのとまどい顔。
 が、はねた頭のてっぺんの髪をゆらし、はいと頭をさげる。
 下をのぞきながら橋の上にいるトラとブチの頭に、舟のなかのそんな光景が浮んだ。

3 
 タキが姿を見せた。
 朝顔の浴衣に下駄ばきである。
 掘割り沿いを歩きだした。
 柳の下をいくタキのうしろ姿は、どこにでもいる普通の町娘だ。

 料理屋街をぬけ、日本橋の通りにぶつかる。
 通りを左に折れたところで、タキはあたりを見まわした。
 菱屋をさがしているのだ。

 大きな日除け暖簾(のれん)に『菱』と白抜きで書かれた店があった。
 人足と馬方が木の台に腰をおろし、煙管(きせる)を喫(ふか)していた。
 角帯(かくおび)をしめた手代らしき男が指図をし、小僧が店に荷を運んでいた。

「こちら、菱屋さんでしょうか。伊勢吉さんて人、いらっしゃいますか?」
 タキが声をかけた。
 角帯をしめた男は、まぶしそうにタキを見かえした。
 丁稚(でっち)たちも手をとめた。

「おい、伊勢吉さんを呼んできな」
 ちらり、タキの姿を上から下へ目でながし、男が丁稚の一人に命じた。
 タキは人足たちのまえをとおり、端に寄った。
 トラとブチも左端の軒下に積まれた叺(かます)の上にしゃがんだ。
 極細の縄で編んだ四角い袋の中からは、心地のよい鰹節の匂いが湧きたった。

《きたよ、ほら》
 鰹節の匂いにぽっとなりながら、トラとブチが顔をむけた。
 肩幅のある体格のいい男だった。帯をつけ、足袋もはいている。
 番頭と同格のいでたちである。ただし、目の細い醜男だ。

 男が近づいたが、タキの視線はまだ菱屋の出入口のほうにむいていた。
「ねえさんかい。わたしを呼んだのは?」
 男がタキに声をかけた。
 え? は、はい、とタキは目の前の男に視線をむけなおした。

「なんのご用でございましょう?」
 男がまばたく。
「あのう、伊勢吉さんに」
 タキもまばたく。
「わたしが、伊勢吉ですが」

 見開かれた柔らかなタキの瞳に、あふれる戸惑いの色。
 が、あわてて頭をさげた。
「あのう、菱屋さんには、ほかに伊勢吉さんて方、いらっしゃいますか?」
「うちには丁稚が十人と手代が二人ほどいるけど、伊勢吉はわたし一人だけですが」

 むこうで手代と丁稚たちが、ちらちらタキのほうを盗み見ている。
「ここは菱屋さんですよね?」
「そうだ。菱屋だ」
 タキは襟を合わせ、佇んだ。
それらしい質問も、とっさに浮ばなかった。

「どうしたんでしょう? なにかあったのですか?」
 伊勢吉が困ったようすのタキを見守った。
「わたしはタキともうします。じつは浅草橋の袂で川舟女郎をしております」
 世間知らずのタキは、ためらいもなく自らの仕事を口にした。

「あんた川舟の……女郎さんなの?」
 伊勢吉が細い目をまたたかせた。
「昨日きた伊勢吉さんというお客さんが、手拭いにくるんだ二両のお金を 舟に落とし忘れたんです。船頭の海老造さんがもっていけというので届けにきました」
 懐から包みをだしながら告げる。

 菱屋の伊勢吉は、不思議そうに手拭いの包みを見守った。
「たしかに手拭いはうちのものだ。そいつは、間違いなく菱屋と口にしたんですね」
「はい、口にしました」
 うむ、と伊勢吉は軽く腕を組んだ。
「おれは間違いなく菱屋の伊勢吉だが、とにかくそいつはおれじゃあねえ」
 伊勢吉は息をとめ、目の前の可憐な川舟女郎を見つめた。

 二両を懐にタキは川舟に引き返した。
「いなかっただって? そんなばかな」
 海老造はそれを聞き、おどろいた。

4 
 河岸の料理屋に明かりが灯った。
 柳が並ぶ川岸に川舟の提灯が揺れた。
「お客さん、よっていきなせえ」
「ちょいと、そこの旦那。川舟でそこらを一回りしてみないかい」

 柳の木の下の船頭や女郎が、とおる男たちに声をかける。
 質の悪い船頭は、無理に客を舟に引きずりこみ、大川に漕ぎだす。
 そこで女を抱きつかせ、金を取る。

 だが、タキと海老造は客引きの必要がなかった。
 いいころあいで客が現れるのだ。
 舟に客を乗せ、海老造が大川に漕ぎだす。
 流れにあわせ、舟を川に浮かばせる。
 ようすを見、人気のない岸に舟をつける。
 客が通行人と顔を合わせないように気をくばるのだ。

 そして海老造の舟が、いつものように堀川の岸にもどる。
 橋の上、欄干の陰に赤茶の毛の猫が二匹、しゃがんでいる。
「海老造さん、たいへんだよ」
 蒲鉾型の屋根の下からタキの声がした。
「今のお客さん、五両わすれていったよ」

「五両だって? わすれていっただあ?」
 海老造の低いおどろき声。
「忠兵衛さんて言ってたけど、京橋の笹屋さんだって」
「京橋の笹屋? 忠兵衛?」
 海老造がつぶやく。
「は、はい」
 舟のなかの二人は黙った。

《五両だってか?》
 トラとブチも声をそろえた。
「すみません、タキさんの舟でしょうか?」
 おどろく間もなく、すぐ声がかかった。
 客はまた、商人風情だった。