化け猫地蔵堂 2巻 3話 川船女郎
化け猫地蔵堂 2巻 3話 川船女郎
川舟女郎
1
朝顔模様の浴衣地の着物に縮みの帯。
素足で赤い鼻緒の下駄をはいている。
小粒で色白の娘だった。
頭の上に束ねた髪は、あちこちに毛が撥ねている。
束ねかたが擬古地ない。
すこしまえまで、まだお下げだったからだろう。
他人から聞いてきたのか、確かめるように入ってきた。
庭の奥のお地蔵様を見つけ、ニコッと笑った。
牡のトラ猫も牝のブチ猫も、料理屋とか飯屋とかの女中を想像した。
田舎の臭いのする娘だった。
だが、どこか色っぽい艶やかさがあった。
とにかく、訳あってお江戸にでてきているに違いなかった。
「わたしは浅草橋の川河岸で商売をしています。夕べお客が二両落し忘れていきました。二度めのお客です。真面目そうでいい人でした。困っているに違いありません。どうかその人がまた来てくれますように。お金を返えしたいんです。ついでですが、ぶじにお勤めをはたし、故郷に帰れますように」
つぶやいて、手を合わせた。
《お金を返したいだってさ?》
ついでのお願いの件は無視し、ブチがつぶやいた。
地蔵堂の天井裏である。
《料亭で騒いでいった男なんて、困ってなんかいるもんか》
ばかだなあ、とトラはあきれ顔だった。
《そういうのは祝儀だと思って、自分のものにしておくんだよ》
《なんという正直な娘なんだろうね》。
木立に囲まれた小さな庭は、今年はかなり蒸した。
ようやく過ごしやすくなったところだ。
《浅草の川岸で商売をしているだってさ》
《浅草の川岸と言っても、いろんな川が入り組んでいるから、どこかな》
《ほら、行っちゃうよ》
2
娘は午後の町を歩いた。
ふんわりした赤茶の毛並みに、薄い黒の縦縞の毛のトラ。
同じ赤茶の毛で、鼻先から腹まで白い三角の形になったブチ。
二匹が並んであとについていく。
堀川にでた。
柳の枝がそよいでいる。
あちこちの川にかかる小さな橋。
川上にいけば大川である。
そのすぐむこうは江戸湾の海だ。
両国の南側には、日本橋を中心に武家屋敷と町人の家々がひろがっている。
浅草橋と呼ばれている町である。
あたりには堀川を中心に、料理屋が軒を連ねている。
その堀川の岸沿いに、無数の小舟が浮かんでいる。
川面を這うように、あちこちに靄がたなびく。
七輪の煙だ。
小舟の舳や艫で昼食を用意しているのである。
娘は川岸をゆっくり歩いた。
岸の柳が揺れる。
船着場をすぎ、問屋街を抜けた。
いくつかの小橋を渡った。
娘が立ち止まり、渡りおえようとした橋の下をのぞいた。
「海老造さん、すみません」
橋の下に小舟が舫(もや)っていた。蒲鉾(かまぼこ)型の屋根が被さっている。
舳(へさき)にしゃがんでいた頬かむりの男が、顔をあげた。
「すみませんじゃねえだろ。あれほど言ったのに、なぜ黙って一人ででかけた」
海老造の顔は、ただれた凹凸でいっぱいだった。
あばた顔である。目玉は意地悪そうな金壺眼(まなこ)だ。
「まさか、男のところに行ってた、なんてんじゃねえだろうな、タキ」
タキというのが娘の名前だった。
海老造が腰をあげた。
「ほれ、来な」
舳から手をのばした。
橋の下にまわりこんだタキの細い手首をとった。
「そんなことありません。ちょっとそこまで用があっただけです」
舟にあがったタキが首をふった。
娘を見つめる船頭の手拭の下の黄色い目が、鈍く光る。
《あの娘さん》
トラがおどろいたように目を見張る。
《川舟の女郎さんだったんだね》
白ブチもやっぱりおどろいている。
堀川のその界隈は、川舟女郎の泊り場だった。
商売舟は客がくると大川に漕ぎだし、ころあいを見、岸にもどってくる。
《ということは……》
《二両を忘れていった客というのは》
タキを抱いていった男である。
「わたしに男なんているわけありません。ちょっとお参りしたかっただけなんです」
タキが船頭に説明する。
「ちかくにお宮さんがないかと思って、歩いていったんです。そうしたら、とおりがかりの人が坂下のお地蔵さんを教えてくれたんです。それで遅くなったんです」
ふっと川風が吹いた。
タキの浴衣地の着物の裾がめくれ、膝小僧がのぞいた。
十五、六歳の、くりっとした無垢な白さだった。
川舟女郎になるのは、楼閣(ろうかく)に上がることのできない女か、 訳ありの素人の女たちである。
「とにかく、おれの許可なく舟をはなれんじゃねえ」
船頭の海老造が金壺眼をしかめる。
蒲鉾型の屋根の出入り口には、床までの布暖簾がかかっていた。
舳に立っていたタキは、着物の裾をたくしあげ、暖簾をくぐった。
二匹の猫は橋の真ん中、欄干(らんかん)の陰にしゃがんでいた。
川風がトラとブチの赤茶毛を撫でる。
《海老造とタキは、親子なのかねえ?》
ブチがトラに訊いた。
《親子で川舟女郎なんか、やらないだろう》
ふつう、船頭も女郎も口入れ屋の紹介で商売をする。
そして船頭は口入れ屋の親方から舟を借りる。
なかには自前の舟で商売をしている者もいるが、それは少ない。
もっとも船頭と女は勝手に組んでもいい。
一緒に暮らすうち、夫婦のようになっている者もいる。
タキと海老造はかなり歳が違う。
こんなときは、いっさいを船頭がしきる。
船頭はなだめすかし、ときには脅(おど)しながら女性を扱う。
若くて器量のよい娘は、客がつきだすとすぐ我儘(わがまま)になるので、気遣いもひとしおである。
《タキがもっている二両を、海老造は知っているのかしら?》
《タキはその客がきたら返すつもりなんだから、きっと知らないね。どこかに隠してあるんだな》
《隠してあんのがわかったら?》
《取られるね。でも、取られるんじゃねえぜタキ》
二匹はいつしか、タキの味方になっていた。
と、きゃあと悲鳴があがり、小舟が揺れた。
「この金はなんだ。二両もあるじゃねえか」
「ち、ちがうんです。お客さんが、忘れていったんです」
か細い声だった。だが、ちゃんと言い返していた。
「客が忘れていっただとお?」
「きっと困っています。あの人はいい人でした」
《困っているかどうか、いい人かどうかなんてわからないんだよ、タキ》
《世の中にいい人なんて、めったにいるもんじゃないよ》
「この手拭に包んであったってのか?」
ところが海老造は、いい人うんぬんに興味を示していなかった。
金を包んであった手拭を吟味しているようなのだ。
「海老造さん、お願いです。お金は返してやってください」
タキが訴えている。
すると海老造が意外な返事をした。
「わかった。この金は返えそう。昨夜の細面の若い男だろう? 名前はなんてんだ?」
「伊勢吉さんです」
タキが小さく答える。
「なんだおめえ、頬なんか赤くしやがって。言っただろ」
海老造の声が尻あがりになった。
川舟女郎
1
朝顔模様の浴衣地の着物に縮みの帯。
素足で赤い鼻緒の下駄をはいている。
小粒で色白の娘だった。
頭の上に束ねた髪は、あちこちに毛が撥ねている。
束ねかたが擬古地ない。
すこしまえまで、まだお下げだったからだろう。
他人から聞いてきたのか、確かめるように入ってきた。
庭の奥のお地蔵様を見つけ、ニコッと笑った。
牡のトラ猫も牝のブチ猫も、料理屋とか飯屋とかの女中を想像した。
田舎の臭いのする娘だった。
だが、どこか色っぽい艶やかさがあった。
とにかく、訳あってお江戸にでてきているに違いなかった。
「わたしは浅草橋の川河岸で商売をしています。夕べお客が二両落し忘れていきました。二度めのお客です。真面目そうでいい人でした。困っているに違いありません。どうかその人がまた来てくれますように。お金を返えしたいんです。ついでですが、ぶじにお勤めをはたし、故郷に帰れますように」
つぶやいて、手を合わせた。
《お金を返したいだってさ?》
ついでのお願いの件は無視し、ブチがつぶやいた。
地蔵堂の天井裏である。
《料亭で騒いでいった男なんて、困ってなんかいるもんか》
ばかだなあ、とトラはあきれ顔だった。
《そういうのは祝儀だと思って、自分のものにしておくんだよ》
《なんという正直な娘なんだろうね》。
木立に囲まれた小さな庭は、今年はかなり蒸した。
ようやく過ごしやすくなったところだ。
《浅草の川岸で商売をしているだってさ》
《浅草の川岸と言っても、いろんな川が入り組んでいるから、どこかな》
《ほら、行っちゃうよ》
2
娘は午後の町を歩いた。
ふんわりした赤茶の毛並みに、薄い黒の縦縞の毛のトラ。
同じ赤茶の毛で、鼻先から腹まで白い三角の形になったブチ。
二匹が並んであとについていく。
堀川にでた。
柳の枝がそよいでいる。
あちこちの川にかかる小さな橋。
川上にいけば大川である。
そのすぐむこうは江戸湾の海だ。
両国の南側には、日本橋を中心に武家屋敷と町人の家々がひろがっている。
浅草橋と呼ばれている町である。
あたりには堀川を中心に、料理屋が軒を連ねている。
その堀川の岸沿いに、無数の小舟が浮かんでいる。
川面を這うように、あちこちに靄がたなびく。
七輪の煙だ。
小舟の舳や艫で昼食を用意しているのである。
娘は川岸をゆっくり歩いた。
岸の柳が揺れる。
船着場をすぎ、問屋街を抜けた。
いくつかの小橋を渡った。
娘が立ち止まり、渡りおえようとした橋の下をのぞいた。
「海老造さん、すみません」
橋の下に小舟が舫(もや)っていた。蒲鉾(かまぼこ)型の屋根が被さっている。
舳(へさき)にしゃがんでいた頬かむりの男が、顔をあげた。
「すみませんじゃねえだろ。あれほど言ったのに、なぜ黙って一人ででかけた」
海老造の顔は、ただれた凹凸でいっぱいだった。
あばた顔である。目玉は意地悪そうな金壺眼(まなこ)だ。
「まさか、男のところに行ってた、なんてんじゃねえだろうな、タキ」
タキというのが娘の名前だった。
海老造が腰をあげた。
「ほれ、来な」
舳から手をのばした。
橋の下にまわりこんだタキの細い手首をとった。
「そんなことありません。ちょっとそこまで用があっただけです」
舟にあがったタキが首をふった。
娘を見つめる船頭の手拭の下の黄色い目が、鈍く光る。
《あの娘さん》
トラがおどろいたように目を見張る。
《川舟の女郎さんだったんだね》
白ブチもやっぱりおどろいている。
堀川のその界隈は、川舟女郎の泊り場だった。
商売舟は客がくると大川に漕ぎだし、ころあいを見、岸にもどってくる。
《ということは……》
《二両を忘れていった客というのは》
タキを抱いていった男である。
「わたしに男なんているわけありません。ちょっとお参りしたかっただけなんです」
タキが船頭に説明する。
「ちかくにお宮さんがないかと思って、歩いていったんです。そうしたら、とおりがかりの人が坂下のお地蔵さんを教えてくれたんです。それで遅くなったんです」
ふっと川風が吹いた。
タキの浴衣地の着物の裾がめくれ、膝小僧がのぞいた。
十五、六歳の、くりっとした無垢な白さだった。
川舟女郎になるのは、楼閣(ろうかく)に上がることのできない女か、 訳ありの素人の女たちである。
「とにかく、おれの許可なく舟をはなれんじゃねえ」
船頭の海老造が金壺眼をしかめる。
蒲鉾型の屋根の出入り口には、床までの布暖簾がかかっていた。
舳に立っていたタキは、着物の裾をたくしあげ、暖簾をくぐった。
二匹の猫は橋の真ん中、欄干(らんかん)の陰にしゃがんでいた。
川風がトラとブチの赤茶毛を撫でる。
《海老造とタキは、親子なのかねえ?》
ブチがトラに訊いた。
《親子で川舟女郎なんか、やらないだろう》
ふつう、船頭も女郎も口入れ屋の紹介で商売をする。
そして船頭は口入れ屋の親方から舟を借りる。
なかには自前の舟で商売をしている者もいるが、それは少ない。
もっとも船頭と女は勝手に組んでもいい。
一緒に暮らすうち、夫婦のようになっている者もいる。
タキと海老造はかなり歳が違う。
こんなときは、いっさいを船頭がしきる。
船頭はなだめすかし、ときには脅(おど)しながら女性を扱う。
若くて器量のよい娘は、客がつきだすとすぐ我儘(わがまま)になるので、気遣いもひとしおである。
《タキがもっている二両を、海老造は知っているのかしら?》
《タキはその客がきたら返すつもりなんだから、きっと知らないね。どこかに隠してあるんだな》
《隠してあんのがわかったら?》
《取られるね。でも、取られるんじゃねえぜタキ》
二匹はいつしか、タキの味方になっていた。
と、きゃあと悲鳴があがり、小舟が揺れた。
「この金はなんだ。二両もあるじゃねえか」
「ち、ちがうんです。お客さんが、忘れていったんです」
か細い声だった。だが、ちゃんと言い返していた。
「客が忘れていっただとお?」
「きっと困っています。あの人はいい人でした」
《困っているかどうか、いい人かどうかなんてわからないんだよ、タキ》
《世の中にいい人なんて、めったにいるもんじゃないよ》
「この手拭に包んであったってのか?」
ところが海老造は、いい人うんぬんに興味を示していなかった。
金を包んであった手拭を吟味しているようなのだ。
「海老造さん、お願いです。お金は返してやってください」
タキが訴えている。
すると海老造が意外な返事をした。
「わかった。この金は返えそう。昨夜の細面の若い男だろう? 名前はなんてんだ?」
「伊勢吉さんです」
タキが小さく答える。
「なんだおめえ、頬なんか赤くしやがって。言っただろ」
海老造の声が尻あがりになった。
作品名:化け猫地蔵堂 2巻 3話 川船女郎 作家名:いつか京