答えを出してくれる歴史
しかし、得意先であれば、それぞれに優先順位というものがついている。
得意先が、100あったとしても、そのうち半分近くは、
「訪問をしなくても、勝手に注文が入ってくる」
というようなもので、ほとんど、フォローを考えなくてもいい。
残り、50といっても、その中で、半分チョットは、月に数回くらいいけばいいようなところで、チェーン店だったりして、本部のバイヤーとの接商で、事足りるということになる。
つまり、
「優先順位をつけられる」
ということである。
むしろ、この
「優先順位をいかにつけるか?」
ということが売上アップ、つまり、営業成績にいかに盈虚するかということである。
しかし、それは、
「一般企業へのセールス」
というものにいえることであり、
何といっても、
「学校の先生」
ともなると、
「相手は、一般の生徒」
であり、
「優先順位をつけるなどあってはならない」
ということになる。
ただ、これも、先生が悟りを開くまでに思うことであり、一度悟りを開いてしまうと、
「先生にだって、優先順位をつけることがある」
というものだ。
それは、優先順位を決めて、交通整理をするということで、
「決して、生徒に対しての優先順位ではない」
ということである。
そのことさえ分かれば、少しは気が楽になるというもの。
ただ、これも、個人差があり、
「このことに気付く年齢」
というのもあるというものだ。
それに若い頃に、精神的に耐えられなくなり、病んでしまって、先生を辞めないといけないような精神疾患に陥り、
「再起はできない」
というレッテルを貼られ、今は仕事にもつけず、障害者として認定を受け、
「障害年金」
というものを貰って生活しなければいけなくなってしまったという人も結構いるということは分かっている。
「実に世知辛い世の中になったものだ」
といえるだろう。
実際、今の時代では、
「教師が一番、ブラック企業」
と言われていた。
数十年前は、
「不良問題さえなければ、公務員だから、生活も安定」
などと言われていた時代もあったが、それもとんでもないことの時代となってきた。
そもそもを考えると、
「教師の仕事自体が、自転車操業のようなものだった」
といってもいいかも知れない。
何もない時は、落ち着いているが、何かあった時は、ハンパではない、何と言っても、相手のあることだからである。
だから、
「自転車操業」
というのだ。
しかし、それよりも何よりも、そもそもの問題は、
「政府の中途半端な政策が招いたツケというもの」
のである。
それが何かというと、今から、約40年くらい前、つまり、昭和の終わり頃にはじまったもので、いわゆる、
「ゆとり教育」
に端を発する。
元をただせば、この制度が始まったのは、それ以前からあった、
「不良問題」
であった。
その頃は、
「受験戦争」
が過激になってきた時代で、学校というものが、生徒を成績で縛り付け、世間が、型に嵌めた、いわゆる、
「学歴社会」
と作ってきたのだ。
これも、元々は、敗戦後の日本を復興させるために、
「一定の学力を持った人間を育てる」
ということで、
「詰め込み教育」
というものが始まったもので、それが、
「落ちこぼれ」
というものを作り、昭和の時代に言われていた、
「腐ったミカンの理論」
というものが当たり前のように言われてくると、不良が暴れるなどが起こってくる。
その解決法として、
「社会人が週休二日であれば、学校でも導入すればいい」
などという、安直なことを政府が考えるから、今度は、
「年内にカリキュラムが終わらない」
あるいは、
「しわ寄せが学校に及ぶ」
などという問題から、今度は、また、ゆとりをいきなり辞めるということになり、まるで、
「好景気の後に大恐慌があり、また好景気があり」
という戦後からの高度背長期に近い状況を思い出す。
もっとも、今の時代は、
「不況、さらに不況、どこまで行っても不況」
という状態で、さらには、
「物価だけが上がり、給料が上がらない」
ということから、
「スタグフレーション状態」
ということに経済は落ち込んだのだ。
「教育問題も、浮き沈みの最後には、ずっと、沈んだままになるのではないだろうか?」
ということになると考えられる。
それもすべてが、
「政府の責任だ」
といっても過言ではないだろう。
何しろ学校というところは、上から決まったカリキュラムを行うということで、カリキュラムを決める方も、それを実行する学校も大変なのは、分からなくもないが、それに振り回されるのは、学生である。
何と言っても、教育というのは、
「国民の三大義務:
であり、
「権利」
でもある。
つまりは、
「勤労」
「納税」
「教育」
である。
この場合の教育は、
「教育を受けさせる義務」
ということで、これが、いわゆる、
「国民の三大義務」
である。
しかし、さらに、日本国憲法第二十七条一項は、
「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」
と記されている、
では、次に、三代権利というものもあるのだが、それぞれ、
「生存権」
「参政権」
「教育」
であり、権利としての教育というものは、
「教育を受ける権利」
のことをいうのだ。
だから、
「義務教育」
という言葉があるのだが、これは、あくまでも、教育を受けるのが、権利であり、ウケさせるのが、義務だということになるのだ。
つまり、義務を受けるということは、義務ではなく権利なのだ。
国民は。権利のことを、
「義務」
であるかのように思っている人がいるのではないか。
確かに、生存権は、権利である。
しかし、今の世の中、それがまともに機能していない。憲法25条では、生存権のことを、
「すべての国民は、健康で文化的な最低限どの生活を営む権利を有する」
と言われているが、実際には、めちゃくちゃである。基本的には、生活保護などのことを言っているが、ちょっとでも、収入があれば、そこから引かれたり、クーラーなどの、今の時代、熱中症に不可欠であったり、テレになどの情報源を贅沢品として、その保証金を減額したりするではないか。
確かに、国民の税金が使われてはいるが、それくらいのことは、
「政治家が、税金を使って、自分のために、公然と家族旅行に使ったり、公務と称しての遊びに使ったりすることがまかり通っている時代なのだから、これくらいの生活保護を受けていても、国民の誰もが許すに決まっている。なぜなら、
「明日は我が身」
なのである。
特に、今のように、いつ、
「世界的なパンデミック」
に襲われたりするではないか。
かと思えば、バカなソーリが海外においての自分の人気取りのためだけに、戦争をしている国に、ポンと金を出すのだ。国民のほとんどが、パンデミックの影響で苦しんでいるのにである。
「まあ、あの男も終わりだろう」
と言われている。
「マイナカードのトラブル続き
さらには、
「異次元の少子高齢化問題」
作品名:答えを出してくれる歴史 作家名:森本晃次