答えを出してくれる歴史
うまくいけば、堕胎しようとしている人からは、喜ばれ、カンパする人たちから、恨まれることはない、あくまでも、
「自分たちは堕胎しようとしている人たちの代理であり、カンパする人が何かを感じたとしても、その思いや恨みが向けられるのは、あくまでも本人であって、自分たちではないだろう」
そういう意味で、
「楽して、金を設けられる」
ということになるのだった。
みずきとしては、そのあたりのことも分かっているので、
「カンパをしません」
といっても、カンパ役で自分に交渉に来た人には、嫌な顔をされるかも知れないが、すべては、そこまでであろう。
カンパに応じてくれた人、応じてくれなかった人という情報は、カンパ役の連中には、把握できているだろう。
ノートにつけるくらいのことはしているに違いない。
しかし、それを、依頼主に見せるなどは決してしない。別にそのことを、堕胎を考えている人からは、まったく気にはしていないからだ。
「まずは、無事に堕胎ができる」
ということが大切であり、
「その目的が果たせるまでは、他のことはまったく考えられない」
ということになるに違いない。
カンパ役の連中が、このノートにつけているのも、
「何か悪だくみをしよう」
などと考えているわけではない。
そもそも、カンパしたしないだけで、何ができるというのか、何かの脅しにも何もなりはしないだろう。
彼女たちがそれをつけているのは、彼女たちの中にも、
「今度だけのことではなく、堕胎など、それ以外のことでも、金が必要な人がどんどん現れるから、その時にまたカンパ役として君臨するためには、前にしてくれた人だけにお願いすればいい」
というもので、
「堕胎でなければ、カンパしてもいい」
という人もいるかも知れないので、その人たちは後回しにして、カンパしてもらえれば、儲けものとして、余分に入れば自分たちのものにして、もし足りなくても、
@努力はしたんだけど」
といえば、お願いする方も、強くはいえないという立場から、
「いいのよ、ごめんね、骨を折ってくれて」
と、彼女たちが、途中の中抜きを考えていたのが分かっているのか分かっていないのか分からないが、礼を言われることはあっても、文句を言われる筋合いはないというものであった。
そんなカンパを行っているのだが、みずきは、クラスの中でも、シビアな方だった。
いつも冷静で、誰かに肩入れするというようなことは絶対にないだろうということをまわりの人は感じているだろうと思われていた。
実際にもそうで、それは、クラスメイトだけではなく、先生にも思われていた。
だから、先生のほとんどは、
「あの子だけは、実にやりにくい」
と思っている人は多いだろう。
「何を考えているのか分からない。いつも無表情で、喜怒哀楽がハッキリしているわけではない」
ということであった。
それを思うと、
「少々のことをしても、叱ったりするのが怖いくらいだ」
とそれぞれに思っていたことだろう。
もちろん、そんなことは、口が裂けても言えることではないが。
だから、先生によっては、みずきのような生徒を別に嫌わない人もいた。
そんな先生は、二人ほどいて、一人の先生は、
「おじいさん先生で、授業中は、ほとんどがカオスであった」
といえるだろう。
まるで、
「自習時間」
とでもいうようなカオスな時間。
先生は、一人で授業をしているのだが、生徒はまったく授業を聞いていないどころか、好き勝手に遊んでいる。
一見、異様な光景であるが、学校では、別におかしな後継というわけではなく、
「昔から、普通にある光景」
といってもよかったのだ。
「そんな先生、普通に毎年いたわ」
と、どの世代の人に聞いても、そういうだろう、
ということは、そんな先生は、どの学校も類に漏れず、少なからず、一人はいたということだろう。
しかも、二人はいなかったような気がする。それがなぜなのか分からないが、まるで、
「学校の七不思議」
というか、
「学校あるある」
というべき、
「都市伝説」
のようなおのだったのかも知れない。
そんなことを考えると、滑稽にも思えるが、
「そんな生成が一人はいることで、見えない力が働いているのか、教育側の何かの均衡のように思えてならない」
といってもいいのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「なるほど、そんな先生であれば、みずきのような生徒であっても、普通に接してくれるだろう」
といえるかも知れない。
別にその先生は、
「自分の保身」
というものを考えているわけではない。
先生たちが考えている保身というのは、
「少なくとも、今の自分の立場が崩壊しなければそれでいい」
というものであった
ほとんどの先生は、まだ、
「先生になった時のプライド」
であったり、信念のようなものが残っているのかも知れない。
しかし、おじいさん先生くらいになると、もう、そんなプライドや信念というものは消えていて、
「もう、プライドなんかなくていいんだ」
という悟りのようなものを一度は潜り抜けてきたのかも知れない。
きっと、その先生はいうだろう。
「プライドというのは、いくつも薄い皮が重なって、まるでティラミスのようになっているのかも知れない」
と思っていて、
「その中に、いくつかの厚い皮があって、そこを越えなければいけない」
と、本人は、まるで断層を想像しているのかも知れない。
だからこそ、
「時間がかかる」
というもので、まだ、30歳くらいまでの先生であれば、
「その境地に至ることは難しいだろう」
と思っている。
確かに、
「自分も、30代くらいまでは、まったく境地などというのがあるということも知らなかったし、ただ、底辺で蠢いているという感覚しかなかった」
と思っているのであった。
生徒と正対しなければいけないのは、先生の宿命であり、どう接していいのか分からない時は、宿命がついてくるくせに、接し方が分かってくると、今度は、直接接しなくてもよくなってきた。
「世の中、こんなものかも知れないな」
と、苦笑いをするが、
「学校のカリキュラムを考える人たちが、そんなことも分からないのだから、そりゃあ、学校問題というのは、永遠に平行線だわ」
と思うのだった。
ここでいう平行線というのは一本ではない。
「先生と生徒」
「先生と、保護者」
「現場の先生と、教育委員会の官僚組」
という、いくつもの平行線が渦巻いている。
これらが平行線である以上、どうすることもできないというのが、学校問題というものだろう。
そんな先生というものが、現場で生徒と面と向かっている。そして、生徒や保護者と一番接しなければいけない世代の先生は、いつも五里霧中で、目の前の難問をいくつも抱えている。
そう、
「問題というのは、受け持ちの生徒の数だけあるのだ」
といってもいい。
何と言っても相手のあることである。
一般の企業であれば、特に、ルートセールス先であれば、
「いくつもの得意先を抱えていて、営業も大変だ」
ということになるだろう。
作品名:答えを出してくれる歴史 作家名:森本晃次