答えを出してくれる歴史
というような時代に惹かれたのであった。
特に、今の時代から考えて、何千年も前に、今とそん色のない建造物があったり、神話などが残っていたりと、想像を絶するような時代に、心を響かせるのであった。
しかし、日本史を初めて、古墳時代に入ると、
「なんだ、日本にも、同じような時代があったではないか?」
ということであった。
しかも、あの当時、日本は文字もなく、日本国内で、その時代のことを記した書物がなく、奈良時代以降になって、それ以前の歴史を語るということに、別の意味で、興味が湧くのだった。
そんな時代において、あれだけでかい古墳を、王の陵墓として作ろうというのだから、
「どれだけの時間、どうやって作ったのか?」
ということを考えるのも無理もないことだろう。
そうやって考えてみると、実際に想像していたよりも、結構大変だということが分かると、今度は、
「今の時代の自分たちには想像もできないことであり、逆にいえば、それだけ、王の権力が強かった」
ということになるのであろう。
これが、中学三年生で、公民として、
「政治経済」
などを習うと、今の時代の前に当たる、
「大日本帝国」
というものが、
「いかに、天皇制というものを、正当化し、そして、君主制というものを引いていたのか?」
と考えると、今の民主主義でも、
「昔の天皇が、君臨していた」
ということを隠さずに習うのに、大日本帝国などでは、さらに、
「天皇制の正当性」
というものを教え込まなければいけないので、
「それがどれほどの教育だったのか?」
ということを考えると、
「本当にすごいものではないか?」
と考えるのであった。
今でこそ、
「自由平等」
と言われているが、果たして、本当に、
「自由平等が、行われているのか?」
ということを考えると、民主主義というものが、どういうものなのかと考えてしまう。
だから、
「歴史に学べ」
ということになるのだろう。
そんな民主主義において、
「本当に歴史に学ぶものがあるのか?」
という疑問もある。
少なくとも、
「軍国主義」
において、
「富国強兵」
という時代を正しい時代と考えて、誰もが、
「国家を憂いていた時代」
クーデターなどもあったが、それを映画化したものを見たりすると、
「クーデター」
が失敗し、それを正当化するという意味で、隊長が隊員に行う演説で、
「諸君は、間違ったことをしているわけではない、それは歴史が答えを出してくれる」
といって、
「胸を張って、源谷服してくれ」
といって、隊長は責任を取って、自害するのだが、実際に、今の時代においては、
「あれは、派閥争いであって、クーデターは、賊軍だった」
ということになっている。
実際に、みずきもそう思っているのだが、それは、これから歴史研究が進んでいけば、
「また違った解釈ができてくるかも知れない」
といえるだろう。
あの時代は、
「何が正しい」
ということは、実に分かりにくいほどにカオスだったのだ。
今でこそ、
「自由平等」
と叫ばれていて、いろいろな宗教は思想、そして、政党が存在するが、
「果たして、どれだけ国家を愁いているのだろうか?」
ということである。
もっといえば、
「政治家や官僚が、金に塗れ、自由をいいことに、至福を肥やしている時代」
昔であれば、クーデターが起こっても、不思議のない時代である。
「大日本帝国」
という、
「君主国家」
だから、
「上から抑えられ、自由のない国家」
ということで、
「悪い国家だ」
という発想は、危険であるといってもいいだろう。
確かに、
「君主国」
というのは、ある時代では、当たり前のことだった。
国家元首としての、国王であったり、総統がいることで、国家が成り立っているのであれば、それは、
「立派な君主国家だ」
といってもいいだろう。
君主国家」
だからといって、すべてが悪いというわけではない。
そして、
「自由がない」
というわけではない。
特に有事になると、一致団結して、事に当たるということになる。
今の日本は、平和憲法に守られているから、戦争に巻き込まれることはなかったが、時代が次第に変わってくると、
「平和憲法の国だから」
といって、黙っているわけにはいかないだろう。
いわゆる、日本は、
「平和ボケ」
ということであるが、それは、何も、
「軍国主義になれ」
ということではなく、
「かつての過去の歴史を正しく理解できるかどうか?」
ということである。
日本における民主主義というのは、占領国に、
「押し付けられた民主主義」
ということなので、特に、それまでの、
「立憲君主」である、
「大日本帝国」
というものを、
「否定的に教育する」
という風潮になっている。
だから、
「大東亜戦争」
を、
「太平洋戦争」
などという言葉でごまかしているのである。
実際の内容はどうだったのかは、研究が必要であろうが、少なくとも、表に出ているあの戦争の大義名分は、
「大東亜共栄圏の建設」
ということで、
「欧米支配を排除し、日本を中心とした東アジアの秩序を作る」
というものだったではないか。
それを、
「まるで侵略戦争だった」
と決めつけてしまっては、歴史を片一方からしか見ていないので、それが本当に正しいのかどうか、大きな問題ということになる。
クーデターでは、
「歴史が答えを出してくれる」
といっていたが、今のところの答えとしては、
「反乱軍」
ということになり、かつての戦争は、
「侵略戦争」
ということが、大いに言われている。
しかし、それはあくまでも、まわりの、アジアの国に、
「忖度している」
ということであり、日本独自の考え方ではないのだ。
もっといえば、
「本来なら、独立国としての、平和条約を結んだのだから、もう、大東亜戦争という言葉を使ってもいいのに、それを使わないということは、連合国や、まわりの国に対しての忖度なのか、それとも、敗戦国における、負け犬根性のようなものなのか?」
ということを考えると、
「民主主義における、日本国」
というのは、
「ただの、腰抜け国家である」
としか言えないだろう。
だからこそ、日本という国は、いくら経済が発展しても、
「某国の属国」
と呼ばれることになるのだろう。
基地がこれだけ国内にあって、その運営費のほとんどを日本が負担しているという事実を、どう考えるか?
確かに、
「いるだけで、日本が守られている」
ということであろうが、それだけではない、
「日本という国は、これほど、腰抜けな国なのだ」
ということを、全世界に公表しているようなものだ。
だからこそ、戦後半世紀以上も経っているのに、
「某国の国債を買わされて、その返済を無期限にしている」
というのだ。
もっといえば、
「返さなくてもいい」
といっているようなものではないか。
そんな時代に、果たして過去の歴史の答えが出ているというのだろうか?
作品名:答えを出してくれる歴史 作家名:森本晃次