答えを出してくれる歴史
それなのに、なぜか、ナポレオンと同じ轍を踏んでしまい、敗戦に向かって、舵を切ってしまったのだ。
もっとも、それは、同盟国である日本にも言えることで、
「日本とすれば、完全勝利などありえない」
と思っていた。
「だから、初戦における、半年くらいで、勝利を重ね、相手が戦意を喪失するほどの、大勝利を収めることで、いい条件で講和を結ぶ」
と考えていた。
それ以外に道はないと思っていたのだ。
しかし、実際に戦争に入ると、計画通り、連戦連長となるのだが、あまりにも計画通りに勝ちすぎたので、今度は、やめられなくなってしまった。
ここでやめてしまうと、今度は、国内から、暴動が起こるかも知れない。
日露戦争の時、講和条約で、
「賠償金が取れなかった」
ということで、
「日比谷汪街道焼き討ち」
という大事件が起こったではないか。
今回は、日本国内を戦争一色の状態に国民を煽ってしまったのだから、ここで践祚を辞めてしまうということは、政府批判にそのまま結びつくと考えていたとしても、無理もないことだ。
だから、大本営は、
「情報統制」
と行い、負けているにも関わらず、
「勝っている」
と触れ回り、士気を落とさないようにした。
というのが、情報統制にたいしての、
「言い訳」
であったが、果たしてそうであろうか?
というのも、
「情報統制をしなければ、国民は暴動を起こして、政府も軍も先ゆかず、対外戦争ばかりか、国民まで敵に回すことになる」
ということであった。
少なくとも、ウソをついてでも、戦争継続がなければ、政府も軍も終わってしまうからだ。
そして、実際に、
「日本は敗戦しかない」
と考えた時、政府も軍も、
「これまでのウソがばれるのが怖くて、それであのような、一億総火の玉というような、国民全員の玉砕ということを考えたのではないだろうか?」
そうでもなければ、引き際くらいは考えるはずだが、それを一切考えないということは、そういう見方も出てくるということではないだろうか?
本当は戦争において、政府も軍も、
「国民のため」
最後まで戦ったとは思いたい。
ただ、一つ言えることは、
「天皇制継続」
という、
「国体維持」
というものだけは、本当のことだったのだろう。
とにかく、ドイツにしても、日本にしても、過去を十分に勉強はしていたはずなのに、肝心なところで、最初の計画を見失ってしまった。
ヒトラーの場合は、
「ソ連占領」
というのは、最初からの大きな目的だったということで、どうしても、引くに引けないということだったのかも知れない。
どちらにしても、一度踏み外せば、そこからは、谷底を転がるように落ちていくというのが、教訓であったことであろう。
こんな状況を考えると、
「正義は必ず勝つ」
ということを、戦争が表しているという教育になるのだ。
つまりは、
「枢軸国は悪者だ」
ということで、
「ナチスや、日本軍のやったことを徹底的に悪いことであると宣伝し、戦勝国を祀り上げることで、自分たちもかなりあくどいことをしているにも関わらず、その正当性を訴えているのだ」
ということだ。
それが、あの、国際軍事裁判であり、
「勝者による裁き」
という、歪で茶番な裁判が行われたのであった。
だから、日本においての、教育も、
「正義は必ず勝つ」
ということで、大日本帝国は、
「悪い国」
という教育を受けることになるのだが、歴史を知っている人は、どう思うだろう、
それは、ナチスドイツにおいても同じである。
確かに、それは仕方のないことだったのかも知れないが、
「ではイギリスがやったことも許されるのか?」
ということである。
第一次大戦の頃から、欧州からは、植民地の民衆を、ヨーロッパの戦争に半ば強引に借り出しているではないか。
戦争においては、
「悪も正義もない」
といえる。
つまりは、
「戦争においては、強い奴が勝つ。つまりは、バカを見るのは、弱い立場の人間である」
ということであった。
それを思うと。
「戦争ほど愚かなものはない」
といえるが、だからといって、過去の戦争を見ないというのでは、本末転倒である。
戦争がどのようなものかということを考えると、
「戦争がいかに愚かであるか?」
というのは、教育上必要かも知れないが、
「勝者による裁き」
によって、処刑された人を、悪いと一刀両断にするのは、いけないことだ。
そこから圧力がかかっているのか分からないが、戦後、半世紀以上も経って、まだそんなことを言っている政府は、それこそ、
「歴史を勉強していない」
ということになるのだ。
だから、自分たちの利権でしか動かない、
「能なしの政府」
というのが出来上がるのであった。
聖書や、ギリシャ神話などは、そんな過去の過ちを正しく示してくれているのであろうか?
「宗教の聖典なのだから、それは当然のことだろう」
と果たして言い切れるのだろうか?
というのも、
「ノアの箱舟」
にしても、
「ソドムとゴモラ」
にしても、
「破壊、しかも、徹底的な破壊」
が描かれている。
その元が何だったのかということをも、まったく描かれていない。
それを思うと、
「人間というものは、その正体を隠すものなのか?」
と考えると、
「本当に神などがいるわけではなく、人間が犯してしまった、取り返しのつかないことを、神のせいにして、逃れようとしているだけだ」
とも考えられなくもない。
「だから、神話において、地上を滅ぼしたものは、ただの自然現象でしかない」
といえるだろう。
神様の存在が、本当なのであれば、これだけ長い人類の歴史の中で、本当の神というものの存在が、もっとたくさん残っていてもいいだろう。
しかし、そこで残っているのは、あくまでも、すべて、人間の節目においてだけであり。その瞬間が、教訓として残されることで、その時に、便宜上、神という存在をその時々で、創造する必要があっただけだということであろう。
人間が神を恐れていたというのは、本当かも知れない。
それは、
「自分たちが神を人身御供にして、自分たちの過ちを未来に残さないようにしたのが、今も残る昔からの聖典なのかも知れない」
といえるのではないだろうか?
「もし、神が存在しているということであれば、あれだけたくさんの宗教があるというのもおかしなものだ」
といえるのではないだろうか?
というのは、
「そもそも、人間は一つだったはずなのだが、ある時を境にm世界にバラバラに散った」
ということを示しているのが、
「バベルの塔」
の話である。
「自らが神に近い存在である」
ということで、ニムロデ王という王様が、果てしなく高い塔を立てて、自分が神になったかのように君臨しようと考えた時、彼が弓を天に向かって打った時、神が怒って、塔を破壊した。
ということになっている。
その時に一緒に神は、王の民を、すべて言葉が通じないようにして、民は、そこから全世界に散っていったということになっている。
作品名:答えを出してくれる歴史 作家名:森本晃次