可能を不可能にする犯罪
「豪華客船で旅行をしていて、たまたま、船がどこかに座礁し、沈没を余儀なくされたとして、その時、救命ボートで難を逃れた人がいるとする。その人たちのボートは4人乗りで、四人ちょうど乗っているところに、もう一人が泳ぎついて、ボートに乗ろうとする場合、彼を助けると、低位のーバーで、全員が死んでしまうということになると、その場合は、自分たちが助かるために、ボートに乗ろうとする行為を必死に邪魔をし、自分たちだけが助かったとしても、その場合は、罪に問われない」
というものだ。
この場合は、一人を助けたことで犠牲になるのが、一人であっても、全員であっても関係ない。自分の命を守ろうとする行為に変わりはないからだ。
このような、
「違法性阻却の事由」
と呼ばれるものは、その証明がなかなか難しい。
まさかと思うが、
「殺意を持っていても、違法性阻却の事由だからということで、殺意よりも、その時の緊急性が問題になる」
何といっても、
「これが犯罪だとすると、犯罪を計画した方も、命の危険に陥るわけなので、一歩間違えると、一緒に死ぬことになるし、それどころか、相手が自分の代わりに生き残る」
ということだってあるだろう。
そうなると、
「計画犯罪」
というのは、まずありえないといえるだろう。それだけこれが計画的な犯罪であれば、
「諸刃の剣である」
ということになってしまう。
この
「オオカミ少年」
という話は、犯罪だといえるだろうか?
そもそも、発端は、
「子供のいたずら」
といってもいいような、他愛もないことだったはずだ。
しかも、最初のうちは、オオカミも出てこなかったのだから、
「ただの人騒がせな少年」
ということで、
「刑法で裁くことはできるのかどうか?」
というのが、微妙ではないだろうか?
一種の、
「狂言壁」
というのか、イメージとしては、
「詐欺のようなもの」
といってもいいだろう。
たとえは少し違うかも知れないが、最近の異常気象と言われる中で、天気予報の中で、
「今回の台風は、数十年に一度の大災害を及ぼす、最大級のものだ」
ということになるだろうと言われていたとする。
しかし、
「蓋を開けてみれば、台風は、当初の予想を外れ、ほとんど被害がなかった」
ということが、その一回だけではなく、何度もあったとすれば、それこそ、
「くるくる詐欺」
などと言われ、次第に、誰も警戒しなくなるという、それこそ、この、
「オオカミ少年」
のような話と同じことになる。
「ひょっとすると、オオカミ少年の話というのは、この手の、自然現象がヒントになっているのかも知れない」
と言える。
童話の世界では、
「北風と太陽」
の話のように、自然であったり、自然現象が及ぼす話というのも、少なくはないだろう。
それを思うと。
「オオカミ少年」
というのは、一種の、
「自然現象と同じではないか?」
と言えるのではないだろうか?
だとすると、同じようなことは、
「どの時代のどこで起こったとしても、不思議なことではない」
と言えるのではないだろうか?
つまりは、
「このお話は、故意の部分よりも、自然発生的な部分が大きいと思うと、
「戒め」
というものは、
「最初から一つではなかったのか?」
ということになる。
つまりは、
「オオカミ少年というのは、あくまでも自然現象であり、その自然現象に対する備えというものを戒めている」
と考えると、
「戒めはオオカミ少年に対してではなく、油断大敵ということでの、村人に対してのものだ」
ということになるのではないだろうか?
それが、
「オオカミ少年」
という話の本質だと思うと、他の寓話やおとぎ話の中で、
「戒め」
というものは、一つでなければいけないということになるのではないだろうか?
「もし、戒めが複数に感じられれば、本質以外は、すべてが自然現象であり、それに抗うことはできない」
ということになるのではないだろうか?
そんなオオカミ少年という話が、どのように広がっていくかと思うと、少し、前述の、
「ドッペルゲンガー」
のお話に、結びついてくるということも考えられるような気がしてきた、
「ドッペルゲンガー」
の場合は、分からないことも結構あって、一番の謎は、
「なぜ、もう一人の自分を見ると、死んでしまうと言われるのか?」
ということである。
そもそも、
「もう一人の自分というのが、存在するのか?」
というところからが問題であり、
この二つの共通の考え方として、
「そもそも、ドッペルゲンガーを見るということ自体が、脳の病気か何かで、幻影のようなものを見た」
ということではないかと言われる。
もし、そうなのだとすれば、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死んでしまう」
という理屈も分かるというものだ。
というのは、
「ドッペルゲンガーという幻影を見る病気が、そもそも、末期の状態であればどうだというのか?」
つまりは、
「末期の患者が、たまたま、幻影としてドッペルゲンガーを見た」
ということで、
「死んだのは、病気によるものであって、ドッペルゲンガーを見たからではなかった」
ということになるのだろう。
まるで、
「アナフィラキシーショック」
のようではないか?
「アナフィラキシーショック」
というものを考えた時、最初に思い浮かべるたとえとして、
「ハチに二度刺されると死んでしまう」
ということである。
この、
「死んでしまう」
というのは、
「ドッペルゲンガーを見たから死んでしまった」
というのとは、そもそもが違っている。
アナフィラキシーショックの場合は、明らかな理由があるのであった。
ハチに限らず、毒をもったものに接触し、身体にその毒が侵入してくると、身体の中で、毒と戦うために、抗体というものができる。
それは、助かった後、もう一度同じ毒が侵入してくれば、それに対して立ち向かうという本能のようなものが働くというものである。
だから、もう一尾ハチに刺されると、今度はその抗体が、侵入してきた毒と戦おうと、抗うのであるが、その時に、身体の中で、アレルギー性のショック状態を引き起こすのだ。
それが、生命の維持の限界に達することにより、死に至るということになるのだ。
だから、死因としては、
「アナフィラキシーショックによる、ショック死」
ということになるのだ。
だから、決して、
「ハチの毒によるもの」
ということにはならない。
ただ、アレルギー性のショックを引き起こすのに、ハチの毒というものが影響しているといえるのではないだろうか?
「じゃあ、抗体など作らなければいいじゃないか?」
ということになるのだろうが、そういうわけにはいかない。
身体に抗体ができることで、人間は、伝染病などの、危険なものから絶えず守ってくれているのだ。
特に、抗体を持っていると、
「一度罹った病気に、罹りにくくなる」
と言われていて、
「はしか」
「水疱瘡」
「おたふくかぜ」
などは、
「一度罹ってしまうと、二度と罹らない」
と言われるほど、抗体の力は強いのであった。
作品名:可能を不可能にする犯罪 作家名:森本晃次