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可能を不可能にする犯罪

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「カメを助けた」
 といういいことをしたにも関わらず、結果として、
「玉手箱をあけたことで、お爺さんになってしまった」
 というものであった。
 本来の話には、実は続きがあったというのが、本当のようで、最後はハッピーエンドだという。
 というのは、
「浦島太郎の話というと、竜宮城の楽しい生活から我に返った浦島太郎が、故郷を懐かしんで、帰りたいというと、お土産に玉手箱を貰い、カメに乗って地上に帰ってみると、そこは、自分の知らない未来の世界で、自分の知っている人が死に絶えてしまい、誰もいない世界だった」
 ということから、
「太郎は、悲観してしまい、乙姫に貰った、決して開けてはいけないと言われた玉手箱をあけてしまったということで、お爺さんになってしまった」
 というところで終わるのが、一般的な浦島太郎のお話だった。
 しかし、実際には、その続きがあるのだ。
 これではあまりにも、中途半端であり、どうしてこうなってしまったのか?
 ということが分からない。
 ただ、これは、浦島太郎が、
「開けてはいけないと言われた玉手箱をあけてしまったことでバツを受ける」
 という、おとぎ話や神話にはよくある、
「見るなのタブー」
 と言われるものを破ったことへの戒めだったのだ。
 同じおとぎ話でも、
「鶴の恩返し」
 などの話があったり、
「聖書」
 の中には、
「ソドムとゴモラ」
 の話であったり、または、ギリシャ神話では、
「パンドラの匣」
 などいろいろある。
 浦島太郎の話もその中の一つとして、
「禁を破ったことに対しての戒め」
 というものが存在しているということである。
 それを考えると、浦島太郎の話が途中で中途半端ではあるが終わってしまったというのも分かる気がする、
 本当の話は、
「お爺さんになった浦島太郎であったが、太郎を愛していて、忘れることができない乙姫が、カメの姿になって、地上にやってきて、さらに、太郎は、お爺さんから鶴の姿に変わり、二人は、鶴亀として、末永く、幸せに暮らした」
 というのが、本当の話だということであった。
 おとぎ話というのは、そもそもが、地方に伝わっていて、
「口伝」
 という形で、口から口を通して伝わってきたことが、纏められ、
「おとぎ草子」
 という形で編纂されたものが多いということなので、それぞれにパターンがあったりするというものであった。
 それを考えると、
「浦島太郎」
 という話も、おかしなことになっているといっても過言ではないだろう。
 そういう意味でも、浦島太郎の話のように、
「戒め」
 という形で伝わる方が多いのかも知れない。
 教育という意味では、
「ハッピーエンドというよりも、戒め」
 と言った方が、話を伝えていくという意味では、このような
「見るなのタブー」
 と言われるようなものは、
「あってしかるべきだ」
 と言ってもいいだろう。
 そういう意味で、オオカミ少年の話というのは、ここでいうような、戒めが、
「もう一つ存在する」
 というのだ。
 というのは、前述のように、
「オオカミ少年」
 と呼ばれる少年が悪いというのは当たり前のことなのだが、実際に問題なのは、
「オオカミが来ない」
 ということが自然に慣れてきて、
「どうせ、オオカミなんか来ないんだ」
 という、
「お花畑的な発想」
 というものを持ってしまったことで、もう誰も、
「オオカミが来た」
 と言われても、その言葉を信じるという人がいなくなるということだ。
 最初の頃は、
「もしかして」
 ということで、
「石橋を叩いて渡る」
 という感覚で、逃げていただろうが、そのうちに、
「石橋を叩かなくなってしまう」
 という発想に見舞われるのだ。
 それが、一種の、
「戒め」
 であろうか。
 さすがに、全員食べられてしまうというのは、残酷な気がするが、寓話ということであれば、逆にこれくらいのインパクトがないと、せっかくの戒めが、戒めではなくなってしまうともいえるだろう。
 つまり、ここでいう戒めとは、
「石橋は、叩いてでも渡らない」
 というくらいの精神を持っていないと、いざという時、判断を見誤るといってもいいのではないだろうか?
 このように、オオカミ少年の話のように、
「一つの物語の中に、戒めがいくつも含まれている」
 というのも、他にもあるかも知れない。
 それが、
「故意に仕組まれたものなのか?」
 それとも、
「偶然できあがった戒めなのか?」
 ということであるが、
「実際にはどっちなのか?」
 という判断は難しいものである。
 特に、
「オオカミ少年」
 の場合は、最初から仕組まれていたというよりも、どちらか、
「たぶん、オオカミ少年に対してであろうが」
 こちらの方が仕組まれていた可能性は高い、だから、この話のタイトルを
「オオカミ少年」
 というのであり、何よりも、この物語から派生した形で、
「絶えずウソをつきまくっていて、そこに罪悪感などがまったくない」
 というような人間のことを、総称して、
「オオカミ少年」
 というではないか。
 それは、別に少年である必王はない。
「老若男女、そんな人間であってもかまわない」
 というわけだ。
 この話をいろいろ考えてみた。
 まず、
「この少年は、精神が正常だったのだろうか?」
 ということである。
 もし、彼を法律で裁くということが行われた場合。まず問題になるのは、
「精神が正常だったのかどうか?」
 ということである。
 というのは、
「何かの犯罪事件があった場合に、無罪となる可能性が一番高いのは、犯人が精神耗弱状態であったのかどうか?」
 ということである。
 犯罪がどんなに残酷なものであっても、被告が精神異常であれば、
「責任能力を問うことができない」
 ということになるのだ。
 そうなると、いくら原告側が、犯罪の残酷性を訴えたとしても、裁判でひっくり返ることはない。
 だから、まずは、
「犯罪が残酷であればあるほど、精神鑑定が行われるのは当たり前だ」
 ということである。
 そして、その次は、
「違法性阻却の事由」
 というものであるが、これは、
「相手からの攻撃を、防衛するためにやむを得ない場合に相手を殺害してしまった場合である」
 ということで、いわゆる、
「正当防衛」
 と言われるもの、さらには、
「生き残るためには、誰かが犠牲にならなければならない」
 という状態になった時、人間の神経として、
「生き残りたい」
 と思うことで、こちらも、やむを得ず、相手の命を奪ってしまったという、いわゆる、
「緊急避難」
 と呼ばれるもの、この二つは、罪に問われないということである。
 たとえば、