可能を不可能にする犯罪
というだけでは、裁かれることはない。
もし、それを、
「侮辱罪」
として捉えるとするならば、
「相手があってしかるべき」
ということであり、
「ただ、口にした」
というだけでは、罪となる罪名が何になるか、まずはそこからの問題となるのであった。
そんな差別用語とは、
「人間の肉体的、精神的な疾患」
であったり、
その人の身分的な差別、つまりは、昔であれば、
「部落問題」
であったり、昔からの家系の問題などが、
「敗戦から2、30年以上も経って、すでに、民主主義として、日本国憲法も発布されてかなり経つ」
というのに、今だ、
「生まれがどうの、家系がどうの」
というのは、おかしなことだと、誰も気付かなかったということなのだろうか?
何といっても、日本国憲法には、それらを差別してはいけないという条文があるではないか?
「基本的人権の尊重」
「法の下の平等」
ということである。
ただ、二つ目の、
「法の下の平等」
というのが曲者で、
「すべてにおいて、平等」
ということにしてしまうと、優劣を付けなければいけないというものができなくなってしまうということになるだろう。
それを考えると、
「人権の尊重」
ということにしても、そうである。
当たり前のように書かれているが、
「基本的な人権であって、何もすべての人権だとは書いていないではないか?」
そうしてしまえないのが、民主主義であり、その理念が、
「多数決だ」
ということになるわけだから、絶対的に、
「少数派は切り捨てられる」
ということになる。
これが、
「民主主義の限界」
であり、社会主義、共産主義という考えが生まれてくるのも当たり前だということだ。
そんな中において、民法などで、個人間で優劣を付けられない場合は、
「公共の福祉」
というものが優先されるということになる。
どんなに正しいかも知れないが、公共の福祉にはかなわないという場合もある。それが、「民法」
というもので、
「憲法の理念を守った形で作られた私法」
ということになるのだ。
だから、憲法では、どうしても曖昧な言い方になる。
「基本的人権」
という言葉における。
「基本的」
という言葉、
「法の下の平等」
ということで、
「平等の前に、法というものが優先する」
ということを言っているのだ。
「基本的人権の尊重」
というのも、
「法の下の平等」
というのも、それだけ、曖昧なことだといえるだろう。
そう考えれば、
「基本的人権の尊重」
と、最後に、尊重で結んでいる。
つまりは、
「尊重はするが、そうでない場合も存在する」
というのを、あくまでも、説明しているだけだということになるのではないだろうか?
そういう意味で、
「法律というのは、実にうまく、そして曖昧に作られている」
ということで、
三権分立の中で、最後の砦となる、司法に、
「ある程度任される」
ということにあるだろう。
国会という立法で、国会議員が、
「曖昧な法律」
を作る。
そして、政府という行政が、それを取り締まる。
そして、法律違反を行った人間を、警察が捜査し、検事が起訴することで、裁判となるのだ。
そこには、
「訴える原告」
がいて、検事が捜査を進める。そして、
「訴えられる被告」
がいて、そちらは、弁護士が、被告を守ることになる。
弁護士というのは、ある意味因果な商売で、
「弁護士の仕事は、正義を守るという、勧善懲悪ではないのだ」
というのは、弁護士というのは、
「依頼人の名誉や財産を守る」
というのが、仕事であり、もしそれが正義に反することであっても、依頼人に不利益が被られるようになるのであれば、
「悪いことだとは思っていても、被告を守らなければならない」
というものだ。
明らかに、
「人を殺した」
ということが状況証拠だけで、十分すぎるくらいあっても、
「物的証拠がない」
ということで、
「無罪」
を主張することになるだろう。
弁護士は、依頼人が、殺人者だということを分かっている場合においても同じである。
もちろん、状況が圧倒的に不利だとしても、たとえば、
「被告は精神耗弱者だ」
ということで無罪を訴えたり、罪にならない、
「正当防衛」
であったり、
「緊急避難を持ち出す」
ということもあるだろう。
ただ、有罪は動かしようがないと分かると、今度は、情状酌量に訴えて、いかに罪状を軽くするかということに終始する。もちろん、そのために、被告との二人三脚は当然のことであり、
「被告が弁護士に秘密にしていることがあったり、協力的でなかったりすれば、弁護などできるわけもなく、被告の有罪は決定してしまい、弁護士としては不本意ながら、敗北を認めざるを得ない」
ということになるに違いない。
そうなってしまうと、弁護士も、
「なるべくしてなった判決」
ということで、諦めざるを得ないというしかないだろう。
そんな事件は結構多いのかも知れない。
ただ、これこそが、
「正当な裁判」
ということであり、
「誰が見ても、納得する」
と言われることになるだろう。
有罪は確定しているといっても、罪状がどれほどのものかというのは、いろいろな証拠を元に、裁判官が決定する。
最近では、
「裁判員裁判」
ということで、
「ランダムに選ばれた国民の代表である、数名の裁判員がいるので、彼らの考え方というのも、大いに影響している。何しろ彼らは、法律、特に裁判に関しては、まったくの無知なのだからである」
ということになるのだ。
裁判員裁判に関しては、賛否両論はあるだろうが、導入されているのであるから、それが問題にならないように運用しなければいけないということで、
「裁判官たちの責任というものは、重大だ」
と言えるであろう。
実際に、よくいえば、
「汎用性を持たせた法律」
であり、悪くいえば、
「曖昧で、何とでも捉えることができるため、時と場合、あるいは、裁く人であるところの裁判官の裁量で、その判決も変わってくる」
というのが法律で、それを取り仕切る、
「司法」
というのは、本当に大変であろう。
ただ、
「立法がもっとしっかりと、法律を作ればいい」
というものではないだろう、
世の中には、
「冤罪」
であったりして、その問題が大きくなったことで、判例というものを、後から見た時、「ただ、迷うわけになってしまう」
ということが言いかねないといえるのではないだろうか?
日本において、最近では、
「コンプライアンス違反」
ということであったり、
いくつかの、
「ハラスメント」
というものが大きな問題となっているということもあって、最近では、いろいろな問題が言われるようになった。
特に、
「男女雇用均等法」
であったり、
「個人情報の保護」
というものも問題になってきている。
それぞれに、問題点が違ったところから波及してきたものであるので、一概に、同じ土俵で語るということはできないが、それぞれに、問題としては大きなものだといえるだろう。
「男女雇用均等法」
作品名:可能を不可能にする犯罪 作家名:森本晃次