可能を不可能にする犯罪
という発想から、
「ジキルとハイド」
のような関係を結びつけないように、今までの都市伝説では、迷信であるかのように自然と考えられるようにしたのではないだろうか?
どちらにしても、過去の人間の考えることは、我々よりも、しっかりしていたのかも知れない。
カプグラ症候群
「死神」
というものがどういうものなのか?
どうしても、妖怪マンガの最初の頃に描かれたものを思い出す。
確かに顔は、骸骨のような顔なのだが、その表情は、当時のサラリーマンを描いた顔に似ていた。
それも、キリっとしたサラリーマンではなく、明らかにコミカルで、それでも、当時のサラリーマンの悲哀を描いていたのだ。
その様子は、コミカルではあるが、悲哀の方が印象が強く。その強さをごまかすための、コミカルさということで、
「どちらも、目立たないようにする」
ということを目指したところの、
「お互いを打ち消すことで、見かけ部分を目立たないようにするというやり方だ」
ということは、どちらかに絞ってみると、
「これほど、目立つものはない」
ということで、
「片方が目立つのであれば、もう片方も目立つ」
という形での、まるで隠れ蓑と思えるような感じだったのだ。
そんな死神を見ていると、
「ドッペルゲンガー」
というのは、自分によく似ていると言われるが、性格面ではどうなのだえおう?
あくまでも、
「行動範囲は同じだが、会話をすることはない」
というではないか?
何といっても、声を発しないということは、何を考えているのか分からない。表情お無表情だという話もあるので、それこそ、不気味でしかないのだ。
だから、
「もう一人の自分」
がそこにいるのを、
「見えている人物を、普通なら、本人だとしか思わないはずなのに、ドッペルゲンガーではないか?」
と思うとすれば、会話の中で、
「あの時、あの時間、お前、あの場所にいただろう?」
と言われて、
「いや、そんなところになんか行ってないよ」
ということを聞いて、初めて。ドッペルゲンガーを疑うのではないだろうか?
本人と同じ行動範囲の場所にしか出没しないのだから、そこにいてもおかしくはないはずだ。
「今の時間は、絶対に事務所で仕事をしているはずだ」
あるいは、
「出張で、遠くに行っているはずだ」
ということが。間違いない場合には、最初から疑うのだろうが、普通であれば疑う余地もないだろう。
それだけ、似ている、
「いや、もう一人の自分なんだ」
ということなのだから、疑いようがないはずなのに。
「あれは、ドッペルゲンガーだった」
とその人を見た相手が、ハッキリとそう感じるのは、それだけ、違和感万歳だったということなのか、
「その人は絶対にしない行動をしている」
という場合に感じるのだろう。
しかも、ドッペルゲンガーだと思った人も、
「どこが違っているのか?」
あるいは、
「どうして自分がその違いに気づいたというのか、なぜ分かったのか、まったく気にしていない」
のである。
あくまでも、
「そこにいるはずがない」
という、信憑性のまったくない気持ちの現れなのだが、それこそ、
「ドッペルゲンガー」
というものの恐ろしさなのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「ドッペルゲンガー」
というものとは、似ているが、少し違う発想が、
「心理現象としての、精神疾患ではないか?」
という症候群があるという。
「ドッペルゲンガー」
というのは、昔から言われていることであるが、この現象や思い込みは、今から半世紀ほど前から言われるようになったもので、おそらくは、
「SF小説」
などというものが流行るようになってから、言われるようになったのかも知れない。
特に、SF小説を映像化する時など、特撮を駆使することで、アニメや映画になったことで、リアルな雰囲気を醸し出せるようになったのだろう。
この発想は、
「カプグラ症候群」
と呼ばれるもので、一種の精神疾患の類だと言われる。
「自分の身近な、近しい人、つまりは、親、兄弟、旦那、奥さん、恋人などが、次第に、よく似た人間と入れ替わっている」
という発想である。
しかも、入れ替わっているのは、人間ではなく、改造人間であったり、宇宙生物であったりという、今の科学では解明できないものだというのだ。
だからこそ、
「嘘だ」
とハッキリと言い切れるわけもなく、当時の子供は、そんな不気味な存在を半信半疑で意識することで大人になってくると、自分の常識では判断できないことが起こると、昔の、特撮やアニメを思い出し、
「その時に理解できなかったことが、今現実のこととして、怒っているのではないか?」
と考えてしまうのだった。
そのことは、たぶん、本人の中で、
「心理的に信じてしまう」
という、異常な感情なのではないか?
とはわかっているのだろうが、それに対して。科学的な根拠がないと、どうしても、
「自分がおかしい」
とは思わないし、そもそも、
「こんな変なことを考えるのは、自分だけなのだ」
と考えてしまうのだろう。
そして、自分を孤立させ、
「自分が他の人とは違うんだ」
と思って、一人で殻に閉じこもってしまうことだろう。
しかし、
「異常な感情であり、病気なんだ」
ということを宣告されると、ショックを受け、
「ああ、精神病なんだ」
と思うと、まわりから差別を受けたり、
「バカとして、扱われてしまう運命」
というものしか見えなくなり、ますます、自分を閉じ込めてしまうことになる。
しかし、最近では、
「精神疾患」
というものに、明らかに世間の関心が向いていて、社会問題になってきている。
今まで、そういうものは、
「一部の限られた人がなるもので、個別対応しかできないのではないか?」
ということであったが、今では、精神疾患もいろいろ研究されてきて、無数の薬も、治療を受けている人もたくさんいるのだ。
しかも、昔であれば、
「精神病を患っている」
ということになれば、子供の頃から差別を受けて、
「俺たちは、特別なんだ」
ということで、健常者よりも、下に見られているということになり、
「差別を受けて当たり前なんだ」
という時代があった。
そのうちに、学校でも、
「同和問題」
などというものを、道徳の時間に教えるようになり、道徳教育の充実が、親世代ではありえなかった、精神疾患や障碍者に対する認識の変化が、叫ばれるようになったのだ。
昭和の頃などは、
「放送禁止」
となっている言葉を平気で、口にしていた。
もっとも、放送禁止用語と呼ばれるものは、基本的にその言葉をしゃべったというだけでは罪になるものではない。
放送倫理に引っかかるということで、
「放送事故」
というものが発生し、
「放送事故を起こしたということで、放送界から叩かれる」
ということで、
「懲戒解雇」
にまでなるかどうかは分からないが、その人物の、
「社会的な地位は、まったくなくなってしまう」
といってもいいだろう。
だが、放送業界以外では、
「ただ、口にした」
作品名:可能を不可能にする犯罪 作家名:森本晃次