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可能を不可能にする犯罪

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「人間は、時系列で、減っていくことはあっても、決して増えることはない」
 と言えないだろうか?
 生き物にはすべからく一生というものがあり、そこには、寿命がある。
 つまり、不老不死の人間がいない限り、世界の人口は減り続けるということだ。
 しかし、実際には、人口は増えている。
 これは、ドッペルゲンガーによって、増えているように見えるだけではないか?
 ともいえないだろうか?
 それとも、輪廻転生というのは、一部のことであり、生まれてくる中には、まったくの新規で生まれてきた人間も、一定数含まれているということになるのだろうか。
 どちらにしても、輪廻転生というものが、一部でしかないということであれば、
「宗教というもの、教えのためには、少なからずつじつまの合わないことでも、信者を信じ込ませなければならない」
 という、宿命のようなものを持っているのではないだろうか?
「ドッペルゲンガーを見たら死ぬ」
 という意味で、このような
「死を目前にしたことで、覚醒したもう一人の自分が、一定期間存在した」
 と考えれば、人口が減らないというのも、理屈に合う。
「ひょっとして、人間というのは、死を迎えるまでのどこかで、必ず、覚醒というものをするのではないだろうか?」
 ということが言えるのかも知れない。
 それを考えると、
「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
 というのは、精神疾患ではなく、
「最初から、死というものが分かっているから、本人には、ドッペルゲンガーというものを知らなくても、その理屈は分かっているということになるのだ」
 死を意識するということは、自分を覚醒させ、薬を使わずとも、
「もう一人の自分」
 つまり、
「ドッペルゲンガー」
 を覚醒させることができる。
 つまり、
「ドッペルゲンガーというのは、覚醒するということが、必要ではないか?」
 ということである。
 だから、死を迎えた時、どのように立ち向かえばいいのかということが、分かっているということであろう。
 普通、人間は、自分の死を目の前にして、冷静になれるものではない。
 神経の弱い人であれば、それこそ、
「他人を巻き込んで、一緒に死んでもらおう」
 と考えるのも、無理もないだろう。
 中には、
「致死率の高い伝染病に罹った人が、自分だけが死ぬのは寂しいということで、多淫を撒き沿いにして、罪となり、被疑者死亡で、書類送検された」
 という話だってあるではないか、
 さらには、昔の王の陵墓だって同じではないか?
 というのも、
「王様が亡くなると、墓に一緒に家来を埋められた」
 ということで、死後の世界にまで、自分の家来を連れていこうというのだから、これほど理不尽なこともないだろう。
 ただ、これは、
「民主主義」
 という教育を受けたから感じることであり、昔の人の考えがどのようなものであったのか、はかり知ることができないのを考えると、
「俺たちは、どう考えればいいのか?」
 というだけで分からなくなるのだから、
「ドッペルゲンガーの存在」
 というものを、いかに正当性をつけて考えればいいのかなど、分かったものではないというものである。
「ジキルとハイド」
 という話は、そういう意味で、
「ドッペルゲンガー」
 という発想、いや、現象に、立ち向かっている作品だといえるだろう。
 この、ジキルとハイドという話が書かれた時、
「ドッペルゲンガー」
 という考え方はすでい存在していて、
「どういうことなのか?」:
 ということを、いろいろ皆が考えていたのかも知れない。
 その中の一つがこの作品であり、違った観点から、つまり、
「二重人格」
 という、一種の、
「精神疾患」
 ともいえるものを、書き出し、その中で覚醒させてみせるということで、結局生まれたものは、
「ドッペルゲンガー」
 というものの、存在理由と、
「どうして死ぬと言われているのか?」
 ということの、考え方が生まれてくるのだが、
「ジキルとハイド側」
 からと、
 正当派として考えられたこととは、
「結局、同じところに着地するのだ」
 といってもいいかも知れない。
 この場合のキーワードは、
「覚醒」
 というもので、
「覚醒がなければ、ドッペルゲンガーは存在しえない」
 と考えると、今度は、人間の精神面を調べる必要がある。
 すると、またここで、
「自分の中の自分」
 ということで、まるで、合わせ鏡でもあるかのような、スパイラルが存在しているということになるのではないだろうか?
 ただ、ドッペルゲンガーにおいて、
「見ると死ぬ」
 ということを言われ出したのがいつのことなのか分からないが、
 その信憑性には、
「有名人や著名人と言われる人が、ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
 と言われているからだということであるが、
「では、ドッペルゲンガーを見た」
 ということが歴史に残るくらいの逸話となるのは、そもそもが、
「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
 という言い伝えがないちと、成り立たないだろう。
 そうなると、元々、このお話は、
「まるで、迷信か、都市伝説の類で言われていたものが、本当に現実になったかのように、しかも、それが著名人によって言われてきたことで、都市伝説が、本当の学説になったかのように、昇格した」
 といってもいいだろう。
 しかも、
「ジキルとハイド」
 のような、センセーショナルな作品が生まれたのも、そこから来ているのかも知れない。
 そもそも、このお話をドッペルゲンガーと結びつけて考える人は少ないかも知れない。
 誰だって、
「もう一人の自分」
 と、自分の中の、覚醒されるべき、人格である。
「二重人格性」
 というものが結びついてくるとは思わないだろうからである。
 だからこそ、
「自分に似た人が、世の中には3人はいる」
 ということで、ドッペルゲンガーの存在を、ぼかして言われてきたかのように思わせることで、故意に、
「ジキルとハイド」
 のような二重人格と、
「ドッペルゲンガー」
 とでは、まったく違うものではないか?
 と考えさせることになるのだろう。
 そんなことを考えると、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来に死んでしまう」
 ということを、
「言いふらしている人がいる」
 ということも成り立つのではないだろうか?
 それは、まるで、
「地獄の伝道師」
 と言われるものではないか。
 その発想が、いわゆる、
「死神」
 という発想に結びつくというのは、
「少し過激なことではないか?」
 といってもいいかも知れない。
 しかも、
「死神」
 などというのは、ただでさえ、おっかないものなので、少し、コミカルに描かれている作品もある、
「妖怪や幽霊をテーマにした漫画やアニメでは、意外と死神をコミカルに描いている作品も少なくない」
 と言えるだろう。
 それはきっと、誰か一人がコミカルに描いたことで、
「そっか、コミカルな死神を描くことで、死に対しての、恐怖を和らげることができるのかも知れない」
 という考えにいたることもできるだろう。
 そう思うと、
「ドッペルゲンガー」
 というものも、
「もう少しコミカルであってもいいのではないか?」