可能を不可能にする犯罪
戒厳令というと、一つの都市に対しての、クーデターであったり、地震などの災害時であったりと、
「自治体の機能がそれらによって失われた時、中央から、それらを統治するための任務を負って、天皇に任命された戒厳司令部というのが、その土地の治安を守る」
ということになる。
その治安を守るためには、時と場合によって、自由を制限しなければならない。それが、権利の抑圧になるのだろうが、これも、
「公共の福祉」
ということでは、当然のことなのだ。
それを思うと、
「立憲君主における治安維持は、力によるものだ」
といってもいいだろう。
今の民主主義では、何といってもm
「基本的人権の尊重」
であり、
「法の下の平等」
ということになる。
しかし、その時らも、
「基本的」
であり、
「法の下」
という但し書きが書かれているのだ。
「法の抜け穴」
ということにならなければいいといってもいいだろう。
そういう意味で、法律もそうだが、警察内のマニュアルや、政府におけるマニュアルもも見たことがないので分からないが、ひょっとすると、
「抜け穴のようなものがあり、曖昧さを醸し出しているのかも知れない」
と感じるのだった。
大日本帝国の戦時中における、
「反政府主義」
としての、
「社会主義」
「共産主義」
と言った、あくまでも、治安維持を壊す団体は、徹底的に排除していき、戦時中の非国民といわれる、
「戦争反対論者」
というのは、
「国民の士気を低下させる」
ということで、一番の罪に価するといわれ、警察に逮捕され、
「ひどい拷問に掛けられ、中には、死んでしまう人もいたかも知れない」
ということであった。
そんな状態になると、
「警察というところは、特に特高警察というのは恐ろしい」
と言われていた。
それは、政治家であっても同じことであった。
たとえば、軍や政府内部で、
「実は社会主義の分子ではないか?」
と、当時存在下、
「諜報部」
のようなところで内偵が行われ、
「社会主義者」
としての烙印が推されると、今度はその証拠固めということで、当時の通信省という政府の機関が、秘密裡に、その家の電信電話を傍受できるということになったのだ。
それが、
「治安維持のため」
ということになり、
「民主主義における自由というものは、まったくない」
といってもいいだろう。
つまり、当時の、
「自由」
というのは、
「国民のため」
というわけではなく。国家のため、
ひいては、
「天皇陛下のため」
ということになるのであった。
今では本当に信じられるであろうか?
「政府や、警察が、個人の家を法律に守られて、電信電話を傍受できるのである」
しかも、それが公然と行われているというのであるから、おそろしいといっておいいだろう、
今であれば、
「個人情報保護」
という法律があり、
「それに違反している」
ということになるのだろうが、そもそも、もっといえば、
「憲法で人権と、平等が認められている」
ということで、ありえないのだ。
しかも、どんなに有事に近い形になったとしても、
「憲法では、人権と自由が認められているということで、戒厳令のようなものを行使することはできないのだ」
つまりは、違憲ということになり、
「本当にそんなことで、一番大切とされる、生命を守ることができる」
というのだろうか?
国民というものをいかに守るかというのが本来の国家の責任のはずなのに、国家を守るために、国民がどうなってもいいというのであれば、まさに、
「国破れて山河あり」
ということになってしまう。
そもそも、日本という国は、
「個人情報が守られている」
と言えるだろうか?
一つは、日本は、
「独立国であって、独立国ではない」
ということだ。
いつまでも、
「地位協定」
などというものがあって、それに縛られているではないか。
「ウソか本当か分からないが」
ということで、
「どうやら、日本はその国の国債を強引に買わされているという。しかも、それは、相手からすれば、返さなくてもいいというもので、完全に、奪い取られているということになるのだ」
というものであった。
国債を買わされているだけではなく。
「国家の威信というものも何もない状態で、政府首脳が、まったく頭が上がらないのだから、たまったものではない」
と言えるだろう。
相手が、
「戦争をするから」
ということで、軍を出せない我が国は、金だけを出すことになる、
確かに、
「平和憲法が守ってくれている」
ということであったが、敗戦国である我が国は、結局、70年以上が経っても、いまだに敗戦国として、
「隷属している」
といってもいいだろう。
そう、
「我が国は、属国」
なのである。
向こうから、無理難題を言われても、憲法の範囲内であれば、いくらでも金を出したり、兵器を供与したりなど、兵器でするのだ。
考えてみれば、
「平和憲法」
を持っている国に対して、
「武器を買え」
あるいは、
「後方支援くらいはできるだろう」
ということで、攻撃されない限り抵抗できない中で、同胞国が本当に守ってくれるかどうか分からないくせに、
「なんということを言うんだ」
と思っても、従わなければならない。
それが、今の日本という国であった。
悪徳プロデューサ―
事件は、正直膠着状態であった。
何といっても、一番の容疑者とされた二人に、二人ともアリバイがあったのだ。何といっても、
「防犯カメラの映像」
というのは、動かしがたい証拠だといってもいいだろう。
本来であれば、
「犯罪の抑止」
として使えてこその、防犯カメラ。
もし、その役割はないとすれば、そもそも、今の時代の、
「個人情報保護」
という観点から、防犯カメラに対しては、
「賛否両論」
というのもあっただろう。
今では、WEBカメラというものがあり、住所を検索するだけで、庭の様子から、洗濯物、さらには、家から出てくる人間の顔までしっかりと映っている。
さすがにそれを、SNSなどで公開することは許されないだろうが、もし、そんなことをすれば、犯罪となるのだ。
また、
「賛否両論」
という意味で、問題になりそうなことといえば、
「GPS機能」
というのが、問題であった。
いわゆる、
「位置情報を確認できる」
というもので、
「登録している人が、今どこにいるか?」
というものである。
一時期、子供や女性関係に対しての、変質者であったり、通り魔事件を防止するということで、親や、彼氏、あるいは、家族、などがその、
「位置情報機能」
というものを使って、スマホで監視するということがあった。
それも、だいぶ前の時代であれば、それも許されることであるが、今の時代では、
「親の子供に対しての、さらには、彼氏が彼女に対してのDVなどというものが、問題になっている」
ではないか。
親が子供を育児放棄しながら、さらには、
「教育」
作品名:可能を不可能にする犯罪 作家名:森本晃次