可能を不可能にする犯罪
「木を隠すには森の中」
という言葉があるように、
「パターンが違っていても、人が死ぬということに変わりはないということであれば、通り魔殺人の中に入れ込んだ」
ということであれば、普通にあることであろうか?
「通り魔殺人ではないか?」
という理由の一つに、殺害方法が、ナイフによる殺傷事件であったことと、手口が似ていたことからだった。
手口が似ているのは、
「こういう犯罪というのは、大体似たり寄ったりだ」
と言われるのだろうが、実際に、
「犯人でなければ知らないはずのことの共通点があったからだ」
それは、
「通り魔殺人のパターンと同じだ」
と言い切れることではなかったので、同じだということは、
「逆にその人のくせというものがあるからではないか?」
と考えられるのであった。
問題は、その殺された女性の身元調査をしていると、彼氏がいるということが分かったからだ。
彼女は近くの大学に通う大学生で、外国語を専攻していた。特にドイツ語に、高校時代から興味があったようで、高校時代の友達の中で、特に、
「ドイツという国が好きだ」
と言っていた人が、彼氏になっていたのだ。
その人は、ドイツ語に興味があったというよりも、むしろ言語以外のところで興味を持っていた。
フランケンシュタインや、ドッペルゲンガーのような話が、ドイツ系の話と混乱し、さらには、ドラキュラ伝説も会いまうことで、
「ドイツというところを研究していると、ワクワクしてくるんだよ」
と言っているのだった。
大学において、二人が接近していることを最初は誰も知らなかった。
二人とも、何かのサークルに所属しているわけでもないし、友達が多いというわけでもなかった、
特に女性の方は、
「誰かと一緒にいるところを見たことがない」
というほどで、目立たないというよりも、
「暗い」
と言った方がいいかも知れない。
だが、男の方は、暗いというよりも、目立たないという方であり、いわゆる、
「石ころのような存在」
といってもいいのではないだろうか?
石ころのような存在というと、相手には、その存在が見えているのに、意識しないということであり、
「そこにあって当たり前」
という状態であることが、感覚をマヒさせるということにつながるのではないだろうか?
二人は、見る人にとっては、
「よく似た人」
という感覚で見えていて、しかし、さらによく知った人から見ると、
「似て非なるもの」
というところではないだろうか?
それこそ、
「ドッペルゲンガー」
の発想に似ているのかも知れない。
「ドッペルゲンガー」
というのは、
「世の中に三人はいる」
という、
「似ている人間」
ということではないのだ。
似ているだけではないということは、逆に、
「似ていることは、ある意味、正対していると、その化けの皮が剥げるのではないだろうか?」
と考えられる、
その理屈としては、一つ思い浮かんでくることで、前述の、
「カプグラ症候群」
というものがあると言われる。
これは、最近になって、言われるようになったことであるが、これは、あくまでも、
「言われるようになったのが、最近になってからということであって、実際には、昔から言われていたのではないか?」
ということである。
だが、実際に、文献やネットには、
「最近言われるようになった」
と書いていることから、この現象が、最近になって起こったかのように思われるのだが、実際にはそうではなく、
「昔から言われてきた現象を、症候群として、病気の一種のように考えるようになったのが、最近になってからだ」
ということであった。
つまりは、
「実際に現象として起こっていたことと、症候群という病気の一種としての認識を一緒に考える」
ということが、問題になっているということである。
そういう意味で、
「ドッペルゲンガー」
というが、言われている中での、
「精神疾患」
から来ているのだとすれば、
「ドッペルゲンガーというものの現象というものは分かってきたのが今であり、これから、それがどのような病気なのかということを、解明する」
という時期だと考えれば、
「ドッペルゲンガーの全容が明らかになってから、ドッペルゲンガーという考えがその時に生まれたものだ」
と言われるようになるのではないだろうか?
そういう意味で、
「ドッペルゲンガーも、カプグラも、現象というものが、先に常に動いていて、それを証明するまでに、かなりの時間がかかるだろう」
そして、
「すべてが分かってしまった時、ドッペルゲンガーというものは、現象から一度洗い落とされ、すべてが、洗い落とされた時から始まったかのような演出がされる」
そんな考えを、彼氏の方が持っていたのである。
彼女も、まわりからは、
「あの子は変わっている」
と言われているようだが、それでも、
「彼の足元にも及ばない」
ということのようだ。
ちなみに、彼の名前を、
「細川史郎」
といい、彼女を、
「松重そら」
というのだという。
そらは、中学時代からアイドルに憧れ、高校生の時に、アイドルグループのオーディションにいくつも受け、そのうち、二つ合格を貰ったのだが、一つは、
「これからの人材を育てる」
ということで、
「これからということに特化した女の子をとにかくスカウトする」
というのが目的であり、実際に、そらも、
「君はまだまだ、未熟ではあるが、これからを感じさせる逸材だと思っている」
と言われ、
さすがに、
「未熟」
という言葉はショックだったが、
「これからを感じさせる」
という言葉は、欠点を補って余りあるということで、余計に印象深く心に残ったのだ。
何かのコンテストで、グランプリを貰うよりも、よほどいいことに思え、一時期、自惚れてしまったことだった。
実際に、高校時代は、皆勤賞を貰えるくらいに、レッスンには出ていた。
だから、友達も自然と離れていくというもので、彼女の中には、
「一つの目標をターゲットにしたら、迷うことなく突き進むというのが、当たり前のことなのだ」
と考えるようになったのだ。
そらが、高校時代に、アイドルを目指していたというのを、細川は知らなかった。
だが、それは、彼女が隠していたということで、それは、見つかりたくないという彼女の気持ちを汲んで、分からないふりをしていたといっても過言ではないだろう。
だが、そらは、アイドルになるのを急にやめてしまった。
まわりの人がそれを知った頃には、とっくに頭の中から、アイドルということは、すっかり消えていて、
「まわりと、そらの頭の中は、まるで、相対性理論における時間の流れのように、まったくスピードが違っているものだった」
と言えるだろう。
細川の方は、奇妙な話に興味をもち、それは、
「ドイツだから」
ということでなく、全世界的な奇妙なことに興味をもつようになった。
要するに、
「軌道修正をした」
ということになるのだろう。
作品名:可能を不可能にする犯罪 作家名:森本晃次