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三つ巴の恐怖症

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 それでも、頭のできは、他の連中とは、段違いで、当然、一番の進学校に、普通に合格することになるのは、
「天地がひっくり返っても、そのことに変わりはないだろう」
 ということであった。
 彼らは、見事に、というか、
「普通に当たり前に、合格した」
 本来であれば、
「学校始まって以来」
 といってもいいくらいの素晴らしい成績だったということなので、
「学校の誇り」
 といってもいいのだろうが、確かに、一時期、騒がれもしたが、すぐに、まわりの興奮は冷めてしまった。
「きっと、本人が、ポーカーフェイスだったからなのではないか?」
 ということであったが、確かに、そんなに感動した表情ではなく、むしろ騒いでいることに、どこか苛立ちを覚えているくらいだった。
 そもそも、彼らは、
「誰かが表彰されているのを見るのは嫌だった」
「何を好き好んで、人がちやほやされるのを見ていないといけないんだ?」
 ということを感じ、
 それをやらされるということは、完全に、学校の利益のためだけに動いているだけではないか?
 と考えていると、
「じゃあ、この中に、本当に表彰される人を真剣に褒めたたえている人が、どれだけいるだろう?」
 ということである。
 確かに、学校側の先生、特に、
「教頭、校長」
 あたりは、ニコニコはしている。
 しかし、それは、ただの社交辞令ではないかと思うと、そう思えなくもないし、そうとしか思えないところまで来ることは容易だといってもいいだろう。
 しかし、これは、しょせん、
「学校の名誉」
 であり、その名誉のおかげで、翌年度の、学校応募者が少しは増えるのではないだろうか?
 というだけのことであり、それが、校長などの何の特になるか?
 ということである。
 なるほど、ここで成績をあげれば、その先に、、いいことが待っているかも知れない。
 教育委員会に呼ばれて、栄転ということもあるだろう。
 つまりは、本人にとっては、それは、出世欲というものというだけのことでしかないのであった。
 学校というところは、
「自分の出世のための、道具でしかない」
 ということになるだろう。
 そうなると、他の先生もそうだろう。
 何も自分が何か業績を上げて、表彰されるわけではない。ただ、
「自分の教え子だ」
 というだけだ。
 確かに、
「教師になった時は、自分の生徒が有名人になってくれると嬉しいな」
 ということを考えたりしたものだが、それこそ、自分が新人の時でしかないだろう。
 新人でhなくなると、次第に、
「生徒のため」
 ということを自分の神経をすり減らしたりして考えなければいけない。
 それなのに、生徒は先生を敬うどころか、下に見ているではないか。
 授業はまともに聞かない。
 下手に起こったりすれば、
「父兄から、何を言われるか分からない」
 または、クラスで苛めが起こっていても、学校側から、父兄からというそれぞれの立場に挟まれて、ジレンマに陥ってしまうだろう。
 そうなってしまうと、
「先生が病んでしまう」
 ということになり、
「精神疾患で入院する先生」
 というのもかなりのものになるのだ。
 しかも、文科省が、組むカリキュラムというのは、
「とても、終業時間ではできるのもではない」
 となると、
「睡眠時間を削ってでも、こなすしかない」
 となるのだ。
 ただでさえ、精神が病んでいるところに、カリキュラムというプレッシャーがのしかかってくると、
「もう、精神疾患になるしかない」
 という、設計図に書かれていう通りの結末が待っているだけなのだ。
 秀才は、高校に入ると、そこで、一度挫折を味わうことになる。
 それは、あくまでも、
「最初の挫折」
 ということなのだ。
 というのは、
「これまで、ダントツの秀才だった自分が、高校に入ると、そうでもないということを思い知らされる」
 ということであった。
 つまりは、
「まわりの生徒は皆、超難関と言われる学校に入ってきた秀才ばかりだ。中には、天才も混じっていることだろう」
 ということであった。
 もし、中学時代まで、
「俺は天才で、俺の上には誰もいないんだ」
 ということで、徹底的に自惚れているとすれば、その人は、
「完全に、化けの皮が剥がれた」
 といってもいいかも知れない。
 そんな人に限って、一番優秀な学校にくれば、意外と下の方だったりする」
 というものだ。
 何といっても、
「受験生が少ないのだから、入学できたのは、当たり前だ」
 ということを思っているくらいの人間である。
 ここにも結界があるのだ。
「学校で習う授業などでは、圧倒的な成績を収めるくせに、一般常識的なことに関しては。まったくの、トンチンカンな考えしか持っていない」
 ということだ。
 ちょっと考えれば分かりそうなことを考えない。頭がいいだけに、小手先で考えるということを無意識に覚えたのだろう。
 人との付き合いであったり、常識的なことは、
「回り道をしてでも、自分で見つける」
 ということをしないといけないのに、それを小手先だけでやってしまうと、何もできていないのと同じではないか?
 ということになりかねないのだった。
 あが、さすがにそこまででなくとも、
「自分と同じレベルの人ばかりいる中で、トップといっても、
「今回だけの、偶然とはいえないか?」
 ということになると、それを、
「別に慌てることはない」
 と考えるとすれば、そこで何も焦ることも何もないと分かるのだろうが、今まで見たこともない光景を見せられたことで、焦っているようでは、この先に、
「訪れるであろう、次の挫折」
 というものを払いのけることができるだろうか?
 ということになるのだった。
 そんな中において、高校生になって、最初はさすがに
「こんなにも天才がたくさんいたなんて」
 と考えた。
 自分の周りにいるのは、
「天才ばかりなんだ」
 と考えると、初めてその時に、
「天才と秀才というものが存在していて、その間には、越えることのできない結界というものがある」
 ということに、気付いたのだった。
「ああ、私は天才ではなく、天才と呼ばれる人は、選ばれた人なんだ」
 ということになるのだろう。
 そこで自分が秀才だということが分かると、
「じゃあ、秀才って何なのだ?」
 ということを考えさせられる。
 確かに秀才というのは、
「努力のたまものだ」
 と言われるが、その方が実は尊いというものだ。
 いかにも、
「人間らしい」
 ということであり、天才というもののように、
「持って生まれたもの」
 ということで最初から存在していれば、
「努力なんていらない」
 と言えるだろう。
 確かに
「努力をする」
 ということは、それだけ、まだまだ伸びしろがあるということなので、人間として、生きていくということの意義となることなので、将来を見据えたということでの悩みはないだろう。
 もちろん、
「今の段階から少しでも上に行く」
 ということを目指しているというのであれば、秀才くらいでちょうどいい。
 しかし、考えてみれば、
作品名:三つ巴の恐怖症 作家名:森本晃次