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三つ巴の恐怖症

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 病院の幹部連中は、自分たちが、身動きが取れないところにいるということは分かっていた。
 何と言っても、この病院の、医師や看護婦は、その道のプロであり、実際に、学校も主席で卒業したような人たちばかりであった。
 そして、医者は全員男であり、看護師というのは、すべて女性の看護婦であった。
 だから、今の時代は、看護婦であっても、看護師と呼ぶのが当たり前のようになっているが、ここでは、
「看護婦」
 と呼ばないといけないというルールになっているのだった。
 だから、患者が、
「看護師さん」
 と間違っていうと、その患者には、軽いペナルティがあった。
「一食抜く」
 というくらいのことは普通にあっただろう。
 年配の人ならそうでもないが、若い人たちにとっては、たまったものではない。そういう意味で、他の人が知れば、
「虐待を受けている」
 と思われることだろう。
 実際にはそうなのだが、入所している患者さんたちは、全然、
「虐待を受けている」
 という感覚になっているわけではない。
 どちらかというと、
「自分たちが悪いのだから、バツを受けることは当たり前だ」
 という感覚だったのだ。
 そう、ここでは、
「罰ではなく、バツ」
 なのだった。
 ちょっとした、
「言葉の遊び」
 ではあるが、ここでは、その言葉の遊びというのが重要で、精神疾患のある人たちは、そもそも、言葉に敏感ではあるが、それは、異常をきたしている時であり、それ以外の時は、何も問題のないように見える。
 精神疾患にも種類があり、さらに同じ病気でも程度が違う。
 さらに、程度の違いという中に、微妙な違いがあり、それが、いわゆる、
「個人差」
 というものだろう。
 健常者にとっては、その違いは、理解できるものなのだろうが、疾患のある人たちにとっては、その違いが、何かの結界であるかのように、感じさせる。それが、さらに、
「専門的な知識を必要とするこの病院」
 では、
「頭脳集団」
 というものをあつめる必要があったのだ。
 秀才や、天災というのは、元々は素直なものだ。
 そうなると、
「洗脳もやりやすい」
 というわけである。
 ここのスタッフが、医者や看護婦のトップクラスを集めてきたのは、実は、
「洗脳しやすい」
 ということが一番大きかったのではないだろうか。
 もちろん、それだけの金を払ってきてもらっているということになっているのだから、表向きは、
「先進医療に積極的な病院」
 と思われているだろう。
 先進医療というのは、何も、
「医療機器」
 に限ったことではない。
「頭の先進医療」
 というものもあるわけで、それが、この、
「頭脳集団」
 ということになるわけだ。
 頭脳集団は、今までも、ずっと頭脳集団の中にいた。だから、頭脳集団の中にいることが一番居心地がよく、逆に、他のところに入れられると、まるで借りてきた猫のようになり、まったく機能しなくなるのかも知れない。
 ここの幹部はそのことを分かっていて、敢えて、あつめたようなものだ。
 確かに、医者というだけで、皆頭脳集団だと思うことだろう。
 しかし、実際に病院に行けば、
「そもそも、家族が医者だ」
 というだけで、その道に押し込められ、
「生まれた時から、医者になる」
 という運命を背負っているという、ここでも洗脳されて育ってきたという人もいることだろう。
 そんな連中だって、医学部に進み、医者になった人は山ほどいるだろう。
 それにもまして、途中で挫折した人の数は、それこそ、
「数知れない」
 と言えるに違いない。
 ここにいる、
「天才集団」
 というのは、そんな連中とはまったく違う。
 どういう意思で、医者になろうと思ったのかというのは、それこそ、人それぞれというものだ。
 しかし、天才であったり、秀才と言われる人たちは、最初の小学生の頃は、自分が次第に頭がよくなってくることに気付いたことだろう。
 そして、いつしか、自分を、
「天才ではないか?」
 ということに気付くのだろう。
 そうなると、
「私は、天才の中にいなければいけないんだ」
 というような一種の妄想に駆られることになる。
「天才だから、天才のいく学校に行き、そして、天才として卒業し、天才としての社会人になる」
 ということである。
 そこで目指すのが、これは昭和の昔から変わりはないと思うのだが、
「末は博士か大臣か?」
 という言葉の通りに、どちらかに進むことになる。
 それが、
「文系か、理系か?」
 ということであり、医者になった秀才たちが、理系に進んだということだ。
 中学という義務教育までは、絶えず自分が、ずば抜けて頭がいいというのをわかっているだろう。
 本当であれば、中学を卒業した時点で、大学入試検定でも受ければ、
「高校をすっ飛ばして、大学に入学することができる」
 というものであろうが、彼らはそれをしなかった。
「高校生になれば、高校生の勉強をする」
 ということで、いくら天才だからといっても、先先に進むということはしないのであった。
 してもいいのだが、なぜしないのかということは自分でも分からなかったのだが、
「あまりにも先にいくと、寿命が短くなるのではないか?」
 ということを真剣に信じているという節がある。
 秀才のくせに、そういう迷信めいたことであったり、妄想というものには、弱かったりする。
 そういう意味では、怪談話であったり、ホラーオカルトというのは苦手なのだ。
 口では、
「そんな低俗なもの」
 といって毛嫌いしているのは、
「天才の誇りから来ている」
 と思われていたが、そうではないのだった。
 どちらかというと、
「俺たちは天才だ」
 と思っている人間の視野は実は狭い。
 本当の天才というのは、自分のまわりの視野が狭いということを自覚していることで、その短所を補おうとして、自分なりに修正が利く人のことをいうのだ。
 だから、彼らは天才ではなく、秀才なのだ。
 それは、
「一般人が背伸びして、ギリギリ行き着ける頂点」
 というものであり、そこから先も、果てしなく続いているのだが、そこから先に踏み込むことができるのは、天才だけなのだ。
 天才というのは、
「持って生まれた天性のものを持っている」
 ということである。
「凡人には、どれだけ努力しても、行き着くことのできないその場所を、天才だけが手に入れることができる」
 ということだ。
 それが、病院としては、
「我々スタッフは天才で、医者たちは、秀才なんだ」
 ということで、
「それだけ、自分たちが選ばれた人間である」
 ということが分かっているということになるのだろう。
 秀才である医師たちが、そのことを最初に思い知ることができるとすれば、それは、
「高校に入った時」
 と言えるだろう。
 中学を卒業する頃は、本当に学校側としても、
「十年に一人の天才だ」
 と誰もは思ったことだろう。
 しかし、あくまでも、
「十年に一人なのだ」
「それくらいであれば、普通にいる」
 といってもいい。
 そう思うと、彼らが天才ではなく、秀才だ。
 ということを、教師もどこかで知ることになるだろう。
作品名:三つ巴の恐怖症 作家名:森本晃次