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三つ巴の恐怖症

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「世間に見つかってしまうと、クーデターの失敗を意味する」
 ということであった。
 そもそも、この施設が、
「731部隊の生き残りによって作られた施設」
 ということが分かってしまってはまずいからだった。
 それは、政府が考えている、
「まずい」
 ということではない。
 政府が考えている、
「まずい」
 ということは、かつての占領軍への
「遠慮」
 ということであり、そもそも占領軍が、
「今になってまで、そんな過去のことにこだわりを持っているかどうか」
 ということも分からないのに、勝手な忖度をしているからだ。
 それは、
「大東亜戦争」
 という言葉を使っても構わないのに、まだ、
「太平洋戦争」
 という言葉を使うことで、いまさら存在しない、
「占領軍」
 に気を遣っているというのと同じではないか?
 ただ、これは、すでに、
「太平洋戦争」
 という言葉が浸透してきているところ、いまさら、
「大東亜戦争」
 と呼び変えるというのは、
「日本がかつての、軍国主義に帰ろうとしているのではないか?」
 という、右翼的な考えの人間に忖度しないということと、アジアのかつての、
「大東亜共栄圏」
 を押し付けられたと思っている国に対しての、忖度ではないだろうか?
 ということは、
「日本は何に対して、遠慮しているのか? まるで立憲君主制だった国とその体制に対しての見えない亡霊に怯えているかのようであった」
 それは、この診療所にも言えるのではないだろうか?
 しかも、その感情は、さらに大きなもので、
「大日本帝国」
 というものが、どういうものだったのか、今の時代に知っている人は、ほぼいない。
 学校教育では、
「大日本帝国」
 という時代が、日本にはかつて存在し、その国が、戦争を引き起こしたということを時系列で習うくらいだった。
「なぜ、戦争が起こったのか?」
 そこは、結構曖昧だ。
 あくまでも、歴史の流れの中で、
「戦争が起こった」
 ということにしておかないと、戦争に対して、賛否両論があり、それぞれの主義に偏ってしまうと、それこそ、せっかく、
「太平洋戦争」
 という言葉を使って、気を遣っているのに、その努力が水の泡になってしまう。
 だからこそ、日本という国は、
「曖昧な中に存在していないとまずい」
 ということになり、
「かつての敗戦国として、まだ、刑に服している」
 という状態になって、しかるべきなのかも知れない。
 それを思うと、
「日本が、このまま荒廃していくとすれば、この忖度の状態が、まったく影響していないのだ」
 とは言えないだろう。
 そのくせ、日本は、かつての戦争において、
「あまりにもたくさんの状況を、曖昧にし、もみ消してきた」
 といってもいいだろう。
 かつて存在した
「大日本帝国」
 と、今の、
「日本国」
 とでは、それだけ違う国になってしまったということであろう。
「日米安保」
 などという問題が起こり、学制運動として暴動化した時代もあったが、もはや今の日本では、そんなデモや、過激派と呼ばれる人たちは、出てくることもないだろう。
 それだけ、
「平和ボケ」
 しているといってもいいのだろうが、では、
「この平和ボケは、自然と出てきたものなのか?」
 それとも、
「誰かの手に寄って作られたものなのだろうか?」
 と言えるのではないだろうか?
 老婆心なのかも知れないが、誰かの手に寄って作られたと考えざるを得ない。そうでなければ、このような日本という国が、
「どうして、今まで戦争もせず、他の国の戦争に巻き込まれることがなかったのか?」
 ということになる。
 それは、
「日本を平和ボケにするために、何かの組織であったり、プロジェクト計画が暗躍していた」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんな暗躍の中に、
「ひとつ関わっていたのではないか?」
 と言えるのが、この診療所であった。
 ここは、そもそも、
「731部隊の残冬」
 が建設したということで、まわりにひた隠しにする秘密をもっていたわけなので、もう一つ何か暗躍するものが増えたといっても、どうせ、秘密裡にことを運ばなければいけないことに変わりはないのだ。
 それを思うと、この組織は、
「どこまで。その任務を負っているのか?」
 ということが、問題になるのだろうが、結局、
「いつ終わりにすればいいのか?」
 ということを分からずに、今もずっと暗中模索していることで、
「終止符を打てなくなってしまっていた」
 といってもいいだろう。
「戦争は、始めるよりも、終わらせる方が何倍も難しい」
 というではないか。
 ただ、一つ言えるのは。
「終わらせることの大変さ」
 というものを、いかに和らげるか? ということになるのだとすれば、問題は、
「始める時の難しさ」
 にあるのではないかと考えられる。
 始めることの数倍、難しいと言われる
「終わらせること」
 そのきっかけが、
「始めること」
 というのであれば、これは、滑稽な禅問答のように思えてくるから、不思議なことであった。
 そんな時代を考えていると、
「堂々巡り」
 を繰り返しているというよりも、
「負のスパイラル」
 というものを描いているということで、明らかに、破滅の道を歩んでいるようだ。
 その破滅が何を意味するのか、
「施設の破滅」
 というだけなのか、それとも、
「日本国の破滅」
 ということなのか、さらに、
「日本国というものの体制の破滅」
 ということなのか?
 後の二つは、似ているようで似ていない。
「似て非なる者なのだ」
 体制の崩壊だけであれば、国民はまだ生存できているということで、いいような気がするが、それは、占領を意味している。
 かつての日本が、徹底抗戦をしていれば、
「日本国の破滅」
 を意味し、
「国破れて山河在り」
 という言葉は存在しなかったといってもいいだろう。
 しかし、
「体制の崩壊」
 というのであれば、立憲君主国という大日本帝国が崩壊しただけで、新たに、
「民主主義」
 という日本国ができたというだけのことであろう。
 しかし、
「そのために、今のような国家が生まれた」
 ということで、
「永遠に終わることのない秘密をたくさん抱えたまま、まわりに怯えて忖度しながら、存在していないといけない」
 という、足枷を付けていなければいけないのだった。
 それで、本当に、
「存在している」
 と言えるのだろうか?
 それを考えると、日本の存在意義というものがどういうものなのかということを考えると、
「この秘密だらけで、今の日本国を象徴しているような、曖昧さというベールをかぶった組織」
 が、いよいよ、その我慢の限界に達したといってもいいだろう。
 では、その我慢というのは、どういうものなのだろうか?
 正直、いまのところ分からない。
 だが、何かのきっかけで、そういうことが起こったのだろうとしか言えないのだ。
 その秘密を握っているのが、松橋いちかだったのだ。

                 恐怖症

 いちかは、この街の保養所でおとなしくしているはずだった。
作品名:三つ巴の恐怖症 作家名:森本晃次