ステルスの村
その状態の中で、国からの赤紙がくれば、兵に取られるのも仕方がない。
あるいは、金属供出ということもしょうがないところであった。
それでも、彼らの金属はかなりの貯えをもっていたが、他の村と同じくらいの供出でごまかしていたので、金属類にはまtったく困らなかった。
さらに、食料は、自給自足である。
近くに、軍の施設や工場もなかったのは、幸運といってもいい。
何しろ、この土地は、
「自給自足」
ということには特化していたが、それ以外の土地利用に関しては、まったくダメだったのだ。
何しろ、
「前は海で、すぐ後ろに、丘だったり、山だったり」
ということで、
「軍需工場や軍の施設建設には向かない」
ということであり、しかも、
「港は入り江になっていて、大きな船が入り込むことはできなかった」
という場所だったのだ。
国家も失念していたのは、この村が、
「農村」
ということになっていたので、この港で採れる海産物が豊富であるということであった。
そんなことを誰も分かっていないことで、国家も、
「ここの村や海産物をまったく、見くびっていた」
ということであった。
だから、自給自足は簡単にでき、それを政府に知らせないような工夫をもたらし、
「この村も、戦争で大きな影響を受けた」
と感じさせることになったのだ。
国家としては、
「この日本に、そんな村があったなんて」
と、もしその存在を知れば、かなりの驚愕となったことだろう。
だから、
「この村には、日本の常識というものが通用しなかった」
ただ、中にあ、どこから情報が漏れたのか、都会から買い出しに来る人が、若干いた。
しかし、それは、
「情報が漏れた」
というわけではなく、
「他の村だけを回っていては、食糧不足を補うことができない」
という人たちが、
「苦肉の策」
で、この村にやってくることになったのだ。
だが、この村の体制には、一切の代わりはない。
「どこの誰が来ようとも、自分たちの考えに変わりはない。売るものなど、どこにもないので、帰ってくれ」
とばかりに、門前払いであった。
「同じ日本人として」
と言われるかも知れないが、彼らには彼らの信念と、その信念があったからこそ、ここまで、
「隠れた独立国家」
という意識をもっていることができたのだ。
それを思うと、
「我々は、この村で、他の村の人に施しをするということは、村を売ったということになり、厳しい罰則があるからできない
というものだった。
その罰則も、戦前まではなかった。
そんなものができるほど、日本は荒廃してしまい、無差別爆撃の影響は、想像以上だったということであろう。
それを考えると、
「日本政府は、それだけ、国家が残っていれば、民間はどうなってもいい」
とでも思っていたのだろう。
何しろ、
「無条件降伏を受け入れるかどうか?」
という時点で、問題になったのが、
「国体維持」
だったのだ。
日本における、
「国体」
というのは、
「天皇制」
ということであり、いわゆる、
「立憲君主制」
の維持だった。
そしてもう一つは、
「軍部の解体」
という問題だったのだろう。
実際に当時の日本は、何よりも軍部が強かった。
その理由は、
「天皇の統帥権」
にあった。
当時の、
「軍」
というのは、政府の下に位置していたわけではない。
天皇を大元帥として、天皇が統括するものが軍であり、つまり、
「天皇直轄」
というのが、軍だったのだ。
それを考えると、
「政府ですら、軍に口出しができない」
というのは当たり前のことだった。
政府は、政府で行政を行っているが、慣例として、
「天皇は政治に口出しはできない」
と言われている。
しかし、政府以外で、軍はとなると、
「大元帥」
である天皇が統括するのだから、軍に対しては厳しくなるのだ。
そうなると、有事においては、軍の力が強いのは当たり合えのことであり、天皇制が、
「国体」
であるということであれば、同じく、
「軍も国体だ」
といっても過言ではないだろう。
そうなると、大日本帝国を担っているのは、
「政府ではなく、軍」
ということになる。
しかもその時は戦時下、軍のやることに口が出せないばかりか、作戦もまったく知らされていない。
それどころはか、当時は、軍によって、
「情報統制」
というものが行われ、
「負けた戦闘でも、いかにも大勝利という形」
での報道がなされていたのだ。
それは、あくまでも、
「戦意高揚」
というものが目的で、
「もし、日本が劣勢だということを知ると、国民の間で反戦ムードが高まってくる」
というものだ。
国家ぐるみで、治安維持法を元に、ある意味、
「やりたい放題」
の国家であったが、実際に反戦運動が起こってくると、どこまで抑えられるというのか分からない。
まず、戦争への勝ち負けよりも、
「国家の内部から、その体制が崩れていく」
ということになると、戦争どころではなくなる。
そうなると、
「敵国が日本の内部に揺さぶりを掛けてくることも考えられる」
というもので、それはいわゆる、
「諜報活層」
というものだ。
もっとも、この、
「諜報活動」
というのは、日本はある程度得意としてきた。
中国戦線や、満州などで行われていて、日本における、いわゆる、
「満州事件」
そしてその後の、
「満州国建国」
というものが、電光石火のごとく成功したのは、その、
「諜報活動のおかげ」
と言ってもいいだろう。
だが、本当の諜報活動は、
「欧米列強」
の方が得意だっただろう。
日本という国は、なにしろ、
「国家が狭く、資源に乏しい」
という国だったのだ。
それを考えると、
「諜報活動でもしないと、他の国に追いつけない」
という姿勢としては謙虚であった。
しかし、その野望は、あくまでも、
「独立先進国」
ということで、
「大東亜戦争」
の目的というものは、あくまでも、
「自給自足」
を行って、世界から孤立してしまった日本を守るには、
「影での諜報活動は、重要だったのだ」
ということである。
日本が戦犯として裁かれた、
「極東国際軍事裁判」
において、処刑されることになった人の中には、
「中国大陸、満州においての数々の諜報活動」
と行っていた人も含まれていた。
それは、ある意味、
「当然だったのかも知れない」
しかし、それは、
「戦勝国による、一種のパフォーマンスだったのかも知れない」
と言える。
それは、新たな世界戦争への火種となりかねない、
「共産主義」
へのけん制もあっただろう。
共産主義国というのは、諜報活動を得意とし、スパイなどを送り込み、独立しようとする国を指揮し、
「ゲリラ戦」
を行わせて、そこから、共産圏を拡大していこうというものであった。
ある意味、主義こそ違えども、
「大東亜共栄圏」
というものを画策した日本において、できることだったということではないだろうか?
そんな諜報活動というのは、実はこの村にもあった。