小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ステルスの村

INDEX|5ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 といってもいいだろう。
 そういう意味で、今の時代と似ているではないか。
 平和ではあるが、権力者というものが、庶民に目も向けないことになっているのは、今も昔も同じだった。
 今は民主主義だから、あからさまに鎮圧や、迫害はできないが、しかし、やっていることは、
「国民のため」
 などではなく、
「自分たちの私利私欲のため」
 国民の税金で生活をしているくせに、自分勝手なことをして、挙句の果てに、
「自分の命は自分で守れ」
 というのだから、ひどいものである。
 神社の前の集落は、江戸時代になれば、争いや侵略はなかった。
 そもそも、この土地は、ずっと不作続きなのだから、
「こんなところを手に入れてどうする」
 というのであった。
 結局、そこを農地として利用できないので、
「住宅として利用する」
 というだけだった、
 農地は少し離れたところにあり、そこでは比較的毎年豊作だったので、幕府からも、代官からも睨まれない、安定した時代を過ごしたのだ。
 だから、彼らにとって、
「明治維新というのは、迷惑なものだった」
 といってもいいだろう。
 それまで、平和に暮らしてきて、目立たないように生きてこれたのが、この村の一番の利点だったのだが、明治維新によって、そうも言っていられなくなった。
 政府軍によって、蹂躙されることになったのだが、政府軍の役人がやってきて、この土地を支配しようとすると、またしても、
「奇怪な死」
 を遂げた。
 そこで、政府がこの土地の歴史を調べると、
「この土地が昔から謂れのあるところである」
 ということに気付き、
「あそこには手を出してはいけない」
 ということを語り継ぐようになったのだ。
 そのおかげで、ここまえ、
「ずっと、他の土地と関係なく、この村独自の発展があった」
 といってもいい。
 しかし、昭和の後半に入って、水洗便所かであったりという、
「衛生面などでの発展」
 ということに対しては、この土地の人も賛成で、
「祟りがあったら、怖いな」
 と思っていたが、さすがにこの時代になると、神通力が通用しないのか、それとも、それ以外は、あくまでも独立を守っているということなのか、
「平和な村」
 だったのだ。
 そんな村だったが、ある時期になって、
「平和を脅かす」
 という出来事があった。
 それが、昭和の末期にあった、
「バブル時代」
 というものであった。
 その時代になると、
「土地を持っていて、そこを売りに出すことで、利益が生まれる」
 という、
「土地を商品にして、横流しをする」
 という、今でいう、
「土地運用」
 になるのだろうが、その頃は、
「土地ころがし」
 という時代があったのだ。
 インフラ整備であったり、立ち退きなどを必要とする時代だったので、国家ぐるみで、少々強引なことも平気でやってきていたのだ。
 それをいうのも、
「やくざまがいのやり口で、脅しを掛けたり、買収の金額を操作したりしている商売だったのだ」
 というのも、
「バブル経済」
 というのが、そもそも、
「泡のようなもの」
 であり、誰もその実態に気付かなかったのだろう。
 というのも、
「事業を拡大するだけで、儲かる」
 という時代であり、本来なら、
「一番堅い商売」
 というものをするはずの銀行が、
「過剰融資」
 という、ちょっと考えれば、恐ろしいことになるということが分かっていなかったのか?
 ということである。
 本来なら分かったのだろうが、
「このバブル経済がなくなることはない」
 という発想だったのではないだろうか。
 それを考えると、
「この時代は、何をやっても、やればやるほど儲かる」
 というのが、神話にように、語り継がれているのだろう。
 しかし、その神話というのは、
「都市伝説」
 でしかなかったのだ。
「過剰融資」
 というものが、一歩間違えれば、
「不良債権」
 になってしまう。
 ということがどうして分からないのか?
 それだけ、
「感覚がマヒしてしまっている」
 ということと。
「銀行は潰れ合い」
 という、それこそ、
「都市伝説」
 を真剣に信じていたからだろう。
 信じるには、それなりに信憑性がないといけないが、バブルという見えない存在が、そんな信憑性すら、感覚をマヒさせるものに変えてしまったのかも知れない。
 それを思うと、
「これからの時代は、何が起こっても不思議ではない」
 と言われ、まさにその時代に突入したのである。
「終わるなど信じられない」
 というバブル経済が、一気に崩壊したのである。
「何がどうしてこうなったのか?」
 誰が分かるというのだろう。
 学者ですら、誰もそんなことを言わなかったのだ。それを思うと、バブル経済こそ、
「本当の泡だった」
 ということになるのだろう。
 そんなバブルの時代に、
「あの村は、幻の村だ」
 などと言われた時期があった。
 当時は、何でもかんでも話題にすれば、盛り上がるということで、今でいう、
「パワースポット」
 というべきか、あるいは、
「霊界スポット」
 とでもいうべきか、そういう意味で、密かに、そういう、
「ヲタク」
 のような連中が、やってきていたのだ。
 この村は、そもそも、ひっそりとした、
「自給自足」
 というのを信条にしているような村なので、観光客などは、最初からいらないのだ。
 だから、宿もない。
 民宿のようなものであったり、昔でいえば、ユースホステルのようなものは、あったことがあったが、その連中の、
「悪ふざけ」
 が多かったということで、当局に連絡を入れ、さっそく、撤退してもらうことになった。
 ユースホステルのようなところは、基本、地域住民に、迷惑をかけるということはタブーだということもあって、そういう通報があれば、即座に撤退ということが多くなるのだ。
 それを考えると、あの時の措置は当然のことであり、他にも民宿的なことをやっていたところも、即座に民宿を畳んだのだ。
 元々、金儲けなど関係のないところで、金はたくさんある人が多かったのだ。
「バブル経済」
 というものに浮かれて、せっかく溜まっていた金を、
「全財産、なくなった」
 ということで、破産宣告が後を絶たない都会の連中を、この村の人たちは、さぞかし、冷めた目で見ていたことだろう。
「俺たちは、あんな連中とは違うんだ」
 と、都会の連中が、浮かれて、羽目を外している連中というのは、しょせn、自分で稼いだ金ではないのだ。
 若い連中は、親の金だったり、ちょっとしたアルバイト感覚でやったことが、思ったよりも金になるので、そのバイトをしていると、かなりの、
「あぶく銭」
 が手に入ることになる。
 そうなると、金銭感覚もマヒしてきて、
「まわりに気を使わなくとも、金に困らない」
 ということになれば、少々羽目を外すことくらいは当たり前のことで、それが結果として、まわりのひんしゅくを買い、孤立しているということにすら気づかないということになるのだ。
 そうなってしまうと、
「俺が何をしたんだ」
 という、自分がやったことを何も分からないということになり、
「まわりが、俺を苛めている」
作品名:ステルスの村 作家名:森本晃次