ステルスの村
という呼び方をするが、それは、その界隈には、以前から、何かと怖いウワサが立っていたのだ。
怖いというのは、都市伝説であったり、恐怖心をあおるような話であった。
もっとも、その根拠になるのが、集落の前に建っている、神社のせいなのかも知れない。
その神社は、昔であれば、本当は、前に街が広がっていて、裏の山に神社があるというのが本当なのだろうが、昔から、神社の前には、集落のようなものがなかったという。
これからがウワサを域を出ないのだが、
「神社の前に集落ができると、必ず良くないことが起こり、すたれていく」
というものであった。
その話は、まるで、
「座敷わらし」
のような話だった。
その集落は、最初こそ、網本や地主がいて、田畑からは、豊作が毎年出来上がることで、地主は栄え、村も、潤っていて、比較的、
「裕福な村」
ということであったのだが、なぜか、いきなり没落するのだった。
それは、まるで、一日にして崩壊してしまったという、
「伝説の大陸」
のようであった。
しかし、この村の最初の地主は、実に一代では、栄華を誇り、
「これが、他の村で虐げられた農民と同じなのだろうか?」
というほど、土地は、富んでいたのだった。
だが、ある日、他の村の連中が画策し、この村の人たちを襲い、斬殺することで、強引に村を奪ってしまった。
元々、この村の住人は、攻撃的ではなく、自分たちの幸福は、
「まわりの人たちの幸福である」
と言わんばかりの、ありがたい考えをもった村だった。
だから、豊作で、素晴らしい村だったのに、他の村の虐げられている人からすれば、実に目障りで、
「この土地を手に入れたい」
と考えたことだろう。
そう思うことで、いきなり襲ってきた近隣の村の人に対して、ひとたまりもなかった。
残酷なことに、村人は、女子供すべてにおいて、皆殺しにあった。
「先に禍根を残さない」
というのが、当たり前だったので、農民もそれくらいのことは分かっていたのだろう。
武士の世界で、
「下手に生かしておくと、生き残ったものが、仇として、自分たちを襲ってこないとも限らない」
ということである。
歴史を勉強していれば分かるのだが、
「源頼朝を殺さずにいたために、平家一門を滅亡する羽目になった、平清盛の話」
と同様である。
「情けというものを掛けてしまうと、自分たちの滅亡を招くことになる」
ということで、戦のあとには、
「皆殺し」
というのが当たり前のようになっていた。
だから、
「信長が、よく行った皆殺し」
も致し方ないことであり、
「なぜか、皆殺しというのが、信長だけのことのように思われるのは、それだけ、信長を悪者にすることで、得をする人がいるということであろう」
ということである。
「確かに、その後の天下人は、信長ほどではない」
と言われているようだが、秀吉は、皆殺しや、むやみな切腹命令をいくつも出したりしているではないか。
家康三しても、
「徳川家の安泰」
だけを考えて、豊臣家を滅亡させるということに舵を切ったではないか、
そこには、紆余曲折があっただろうが、結果、その通りにしたのだから、
「情け容赦がなかった」
といっても仕方がないのだった。
それが、武士の世界のことで、その後の明治維新後の軍部も、やはりその考えを踏襲していた。
敗戦ということになり、
「軍の解体」
ということで、日本は、
「平和憲法」
というものをもった国に生まれ変わり、それまでの、
「立憲君主」
だったものが、
「押しつけの民主主義」
の国に代わり、今のところ、70数年という長きにわたり、
「戦争のない、平和国家」
として、世界に君臨しているといっても過言ではない。
しかし。この村は、そんな日本の歴史とは、あまり関係がなかった。
最初の村が、心無い連中の妬みに遭い、村全体が、滅亡させられ、そこに、滅ぼした連中が入ってきて、村にあったものを使って、生活を始めたのだ。
完全に、強盗をした連中がそこに居座る形になったのだ。
事情を知っている人であれば、
「なんて理不尽な」
と思うことであろう。
だが、
「神様というのはいるのかも知れない」
と思えるような状況が起こった。
村を滅ぼした連中に首謀者が、次々に、死を迎えたのである。
いつの間にか、行き倒れていたという人がいたり、それまでは、まったく快晴だった空が暗転してしまい、突然の雷に打たれて、死んでしまったりである。
雷が落ちたその後は、何事もなかったかのように、雲が晴れてきて、
「まるで、雷を発生させる目的だけのために、暗転したのではないか?」
と思わせるほどだった。
「これは祟りだ」
と思うのは当たり前のことで、
「まるで、菅原道真公や、平将門港の怨念のようではないか」
ということで、裏の祠を神社に建て替えて、
「鎮守目的」
ということで、人波を作った。
それが、この村の鎮守として今も残っているのだ。
その場所を、
「怖いところだ」
ということになったのは、まだ少し後で、
「神社を作ったのだから、これで、安心だろう」
と、本当に安心だと感じたのか、まだ、この村にとどまっていた。
しかし、時代は、群雄割拠の戦国時代に突入すると、一気にこの村は襲われて、皆殺しの憂き目にあったのだ。
ただ、そこを戦国大名は手に入れようとは思わなかった。
というのも、その当時まで、村は不作が続いていて、そんな土地を持っていても、
「禍根になるだけだ」
ということで、ここは、空き地のようになっていた。
戦国時代から、織豊時代に入り、
「太閤検地」
というものが行われると、この村にも。
「誰かが赴任する」
ということになる。
しかし、一向に作物は取れない。
そうなると、ここに百姓を置くわけにもいかなくなり、
「家臣の訓練用の土地として使おう」
ということになった。
その守り神として、鎮守を祀ったのだが、そこで訓練をした武士は、活躍するようになり、江戸時代までは、そういう村になったのだ。
その村が平和になってくると、今度はそのうちに、豊臣が滅びたことで、徳川時代となった。
その時、家康は、
「元和堰武」
ということで、
「全国に対して、平和宣言」
つまり、
「戦国の世の終焉」
と言い渡し、徳川家の天下を知らしめたのだ。
徳川家の安泰を完全なものにするために、家康以降の将軍は、事あるごとに、因縁を吹っ掛ける形で、
「諸大名の改易」
を行った。
それは、家康からの重鎮と呼ばれていた人、さらには、将軍家の肉親であろうが、容赦はしない。
ということになったのだった。
そして、幕府の独裁政治は、完全に抑えつけの政治であり、
「士農工商」
などの身分制度、
さらには、
「農民は、生かさず殺さず」
と言ったような、
「あからさまな締め付け」
があったのだった。
そんな時代は、確かに戦はなかったが、一揆などはあった。
しかし、幕府によって、必ずといっていいほどの鎮圧を受けていて、農民も、むやみに逆らえなくなった。
それでも、
「戦のない平和な時代だった」