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ステルスの村

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 と、議長は、それが、
「同じ時代のこの村以外のことだからなのか?」
 あるいは、
「別の時代だから受け継いでいることなので、それが、常識のように思うのか?」
 ということなのか分からない。
 後者であれば、それは、昔からのことであるから、自分たちの伝統は、
「間違っていなかった」
 という証明になるのだろう。
 そんな考えの中で、基本的に村全体が、
「鎖国というものを、皆が承認している」
 と考えられている。
 だが、実際には、
「基本的に」
 というよりも、もっと激しく、
「鎖国こそが正義だ」
 と思っている人が多い。
 そもそも、この村では、あまり、
「妥協」
 というものをいいことだとは思っていない。
 他の土地にいけば、
「人と調和をすることでしか、自分たちは生きられない」
 と思っている。
 だから、会社にしても学校にしても、
「階級」
 であったり、
「年功除雪」
 というものが、絶対について回るのだ。
「学校という子供の世界には、そんなものはないだろう」
 という人もいるかも知れないが、そんなことはない。
 何といっても、
「上級生には逆らえない」
 というのは、今でも当たり前ではないか。
 先生にだって同じことで、新入生というのは、
「何があろうとも、下級でしかない」
 というのだ。
 ただ、それも例外というものが出てきた。
 それが、
「特待生制度」
 というものである。
 特にスポーツ推薦などということで、
「学費は掛からない」
 ということで、学校から、
「来てほしい」
 ということでの、特退扱いなのだ。
 他の生徒は、試験というものに合格しないと、入学はできない。一種の一発勝負となるのだ。
 その日、体調を崩したり、何かのアクシデントがあって、試験が受けられなければ、一年間を棒に振り、
「浪人」
 ということになるのだ。
 本来であれば、
「絶対に合格する」
 と言われていた人でも、たったその日一日の問題で、365倍の日数を棒に振ることになり、また、気持ちをリセットして、最初からの受験勉強になるのだ。
 本来なら、
「楽しい大学生活が暮れているはずなのに」
 ということになるのだ。
 それができないという、こんな理不尽なことは、
「特待生の連中」
 を恨んでも仕方はないが、恨みたくもなるというものだ。
 しかし、この
「特待生」
 というものであっても、
「本当に、幸せになれるのか?」
 ということを考えると、
「こんな理不尽なことはない」
 と言えるのではないだろうか?
 それはあくまでも、
「学校側の思惑通りにいけば」
 ということである。
 なぜ、特待生制度などを作ったかというと、基本は。
「うちの学校は、スポーツでいい成績を出している」
 ということで、学校の名誉を高めること。
 そして、それによって、
「入学させたい」
 という親が増え、生徒も、
「あの高校や大学で、名前をあげたい」
 というお互いの利益が結びつくわけだ。
 しかし、特にスポーツというのは、
「けがが付き物だ」
 ということである。
 プロ野球などでも、同じことが言えるが、ケガをしても、1、2年くらいは、
「治療に専念」
 ということで、
「給料は減らすが、解雇というところまではいかない」
 という選手もいる。
 もっとも、すぐに解雇になる選手もいるのだが、それも、働いているわけだから、ある程度は仕方がないことであろう。
 しかし、これが学生ということになるとどうだろう?
 学生というと、高校だったら三年間しかない。
 1,2年目は、基礎体力をつけるということになるのだろうが、特待生であれば、
「すぐにレギュラー」
 ということになるだろう。
 いくら特待といっても、まわりからは妬まれるだろうし、ある意味、基礎体力もできていないのに、いきなり一年目からレギュラーとなり、ある意味、無理をさせられるということになりかねない。
 何といっても、一年生が一人だけレギュラーとかいうことになると、
「同級生からの妬み」
 さらには、
「上級生からの、いろいろな押しつけと、上から、横からと、プレシャーで、神経がすり減らされることであろう」
 それを思うと、
「けがをしても、それは仕方がない」
 ということになる。
 神経もかなり病んでいる状態であれば、普通なら、病院の治療で、半年くらいでの完治と言われていても、神経的なことから、
「治りが遅くなる」
 ということだってあるだろう。
 それを、果たして、
「学校側は考えてくれるだろうか?」
 ということである。
「特待にしてやるということで、やつらは学校の商品だ」
 としてしか考えていないのではないだろうか?
 活躍すれば、口では。
「君は学校の誇りだ」
 などと言ってはいるが、本心からそう思っているのだろうか?
「お前たちのような青二才が、ちょっと運動ができるというだけで、調子に乗るんじゃない」
 と思っているかも知れない。
 プロのように、厳しい世界でも、選手のことをスカウトであったり、人事は考えているだろう。
 それが、企業というものであるからだ。
 しかし、学校はそうではない。
「生徒はあくまでも金ずる」
 としてしか見ていない学校がさぞや多いことだろう。
 だから、
「部活中であっても、ケガをして、運動ができなくなると、即座に特待を外し、授業料も次からは納めなければいけなくなる」
 ということになるのだ。
 そこには、
「血も涙もない」
 つまり。
「それができないのであれば、退学だ」
 ということだ。
 学校が、
「生徒の人間としての育成のために、学校がある」
 などというのは、ただの詭弁でしかない。
 会社などよりも、数倍もシビアな、そして、経営ということを知らない連中が、しかも、肝心の教育というものを知らない連中が、先生であったり、学校の運営だというのだから、
「こんなに理不尽な世界もない」
 というものである。
 そんな世界において、生徒は、可愛そうなものである。
 苛めがあっても、そして、そのことを学校側は分かっていても、
「無視」
 を決め込んでいる。
 もし、それが発覚すれば、
「その時に対応するしかない」
 という、マニュアルがあるのかも知れない。
 そうでもなければ、
「無視して分かった時の方が、何倍も大変だ」
 ということを分かっているのに、結局、事なかれ主義ということなのか、目先のことだけしか考えられないのだ。
 それが、教育者なのである。
「どんな大人が生まれるか?」
 などというのは、分かり切ったことである。
「学校は、本当に自分たちのことだけしか考えていない」
 特待生で、ケガをした生徒に、
「今度から、学費が払えないと退学ということになるし、勉強についていけないと、成績がそのまま影響して、間違いなく留年ということになる」
 と、平気で告げるのだ。
 それは、まるで、
「死刑宣告」
 のようではないか。
 教師としての本人たちに、その意識があるのかないのか分からないが、
「人間の心が通っているのか?」
 ということである。
作品名:ステルスの村 作家名:森本晃次