小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ステルスの村

INDEX|14ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 という考えは通用しない。
 というのも、
「この村では、それぞれの人格を否定もしないし、かといって、完全な肯定もしない」
 という。
 基本的には、
「自由」
 なのだが、
「それでは、統率ができない」
 ということは分かり切っている。
 だから、他の村、つまり一般的な考えとしては、
「一部の自由を削減する」
 ということで、統制を保ち、
「制限された自由を、本当の自由だ」
 と考えさせるということにするのであった。
 ただ、この村においては、
「自由」
 というものを、触ろうとはしない。
 その代わり、
「洗脳」
 ということを行って、統制のためには、
「自由を謳歌する」
 という意識が残ったまま、この村にはこの村だけのルールを作り、それを精神的に支配して、自由を謳歌させようという考えにいたるのだ。
 だからといって、
「絶対君主」
 とまではいかない。
 民衆は洗脳されている意識はないのだ。
「だったら、それは、ヒトラーのような、絶対的なカリスマ性を持った独裁者に支配されているのとどこが違うというのか?」
 ということを考えている。
 ただ、それがどういうことなのかというと、
「独裁者は、自分のカリスマをもって、それを自分の思い通りに操る」
 ということであったが、この村にも確かに、
「カリスマ」
 と言われる人がいて、その人が、ここまで導いてきた。
 しかし、考えてみれば、
「独裁国家」
 というものが、権力をずっと握り続けるというのは、難しいことであった。
 強力な法律であったり、社会的に、抑えつけがなければ、ありえないことだ。
 そういう意味では、
「他の土地と完全に一線を画している」
 ということでいえば、
「独裁者の生誕」
 という意味では、十分なのかも知れない。
 しかし、そんな、
「独裁国家」
 とは違っている。
 村人は、その人のことを、
「自分たちの長だ」
 という意識はあるのだが、
「独裁的な、カリスマをもった人物」
 という意識はなかった。
 あくまでも、
「民主的に選ばれた。自分たちの代表」
 ということで、逆に、
「自分がその立場にいなうてよかった」
 と思っているのだ。
 それはまるで、小学校などで、
「面倒くさい、学級委員などをやらされている」
 という感覚に似ているではないか。
 つまり、
「学級委員など、やらされると、人をまとめるという意味ではいいのかも知れないが、その分、責任というものがのしかかり、何かあれば、責任を問われる」
 ということに、普通なら、
「そんな立場にいたいとは思わない」
 と感じるはずであった。
 だから、皆、
「長にはなりたくないな」
 と思っているのだ。
 だが、これこそが、洗脳の第一歩だった。
 まわりが、それを感じないような感覚になるということなわけで、
「これが、独裁であり、洗脳なのだ」
 ということだ。
 つまりは、
「洗脳も、独裁もレベルとしては似ているのだが、れっきとした別物だ」
 ということになるのだった。
 村人は皆、
「この洗脳か、独裁的な意識は、誰もが持っている」
 ということになるのだが、その両方を持っているのが長であり、なぜかいつも、長は、
「一人だけ現れる」
 ということになるのだった。
 同じ時期に、長が二人存在すれば、それは、争いの下になる。
 内乱ともいうべき、醜い派閥争いのようなものができてしまう。
 ということになるのであって。その意識は、
「長になった者にしか分からない」
 ということであった。
 長というものをいかに考えるのかということが、この村の、
「掟」
 のようなものであり、他の村と隔絶しても、やってこれた秘訣であった。
 それにしても、この村で、昔から、
「内乱のようなものが、一度お起こったことがない」
 というのは、すごいことだった。
「少なくとも聞いたことはないし、文献にも残っていない」
 ということであったが、
「独裁者というものは、過去の都合の悪いということを、隠そうとするものだ」
 というものであるから、分権が残っていないからといって、それをそのまま信じるというのは、危険なことであろう。
 だが、入れ代わり立ち代わりの長がいたことは事実だった。
 それも、言い伝えとして、自然に、長が入れ代わったというのだ。
 基本的に次の長というのは、
「現在の長が決めるものだ」
 ということであった。
 ただ、これは、君主国の宿命でもあるのだが、全員が全員、
「次の長を決める」
 という前に、病気などで、崩御してしまうということが往々にしてあった。
 その時は、幕府でいえば、
「老中」
 と呼ばれる、数名の人たちによって、合議の上、決められるということになる。
 大体その老中というのは、5人が普通で、時代によっては、
「一人くらいの上下はあっても、かまわない」
 と言われていた。
 だから、この時代の老中というのも、六人だったのだ。
「こんな小さな村であっても、そこまでしなければ、自由というものが保てない」
 ということで、この村は子供の頃の教育で、
「この村の自由や治安を維持していくのは、大変なことなのだ」
 ということを教えられていたのだった。
 だから、他の村が、
「自由を制限し、その中で、生まれる自由というものを、本当の自由だと思っている」
 ということを、誰も知らないだろう。
 この村からは、
「出ていくことは自由」
 であるが、
「いったん出て行ってしまうと、再度戻ってくるということは許されない」
 ということだった。
 ただ、
「この村から出ていった人は、他の村では生きていけない」
 という謂れがあったので、この村から出て行こうと考える人はいなかった。
 だから、そのような規則のようなものは、すでに、
「有名無実」
 ということになっていて、
「今では、出入り自由」
 というところまで考えられていたようだ。
 学校で教えることもなくなった。
 それは、一種の、
「日本という国は、立憲君主の国から、民主主義へと生まれ変わられた、他の村と似ている」
 ということであるが、
「ハッキリそうだ」
 というわけではないのだ。
 というのも、
「日本というのが、立憲君主から、民主化したのは、敗戦ということで、占領下にあったことでの、強制だった」
 ということである。
 しかし、この村においては、
「どこかに負けた」
 などということはなく、
「時代の流れ」
 ということで、募ってきたものだったのだ。
 その時代の流れというのは、あくまでも他の土地の影響を受けたわけではなく、孤立した村ならではの流れというものがあり、その中で、必然的なこととして変革してきたことだといってもいいだろう。
 そんな時代において、
「我々がどのような時代を生きてきたのか?」
 ということが、他の土地とは、感覚的に違っているといえよう。
 それは、
「時間の流れすら違っている」
 というような、SFチックな考え方になっているといっても過言ではない。
 この村でも、一般教養としての学問は、普通に習う。
 その中で、物理学というものは、
「ひょっとすると、他の土地での教育よりも、発展しているかも知れない」
作品名:ステルスの村 作家名:森本晃次