ステルスの村
「自分たちが誘拐された」
という意識はない。
「どこにいたのか?」
と聞かれても、子供たちは、決して言おうとはしない。
だからといって、洗脳されているわけではなく、子供たちの意思から、言わないようであった。
しかも、犯人(ここでは、親に黙って連れて行ったという意味で犯人ということにしておく)からは、身代金などの要求なども一切なかったことから、
「営利誘拐ではない」
というのは確かだった。
しかし、
「だったら、なぜ、子供たちを定期的に攫ったりしたのだろうか?」
ということである。
後になって返すということであれば、歴史の好きな人であれば、
「竹中半兵衛みたいじゃないか」
ということだろう。
竹中半兵衛というと、
「秀吉の家来」
ということで有名だったが、元々は、美濃の国の、
「斎藤道三の家来」
だったのだ。
斎藤道三は、
「戦国大名の代表」
ともいえる人で、
「下克上」
によって、美濃を統一した
「蝮」
と呼ばれた武将だった。
諸説はあるが、
「油売りから戦国大名に登りつけた」
ということで有名である。
しかし、彼は、それまで息子として育ててきた斎藤龍興が、誰かにそそのかされたのか、
「父親である道三が実は、父親の仇に当たる」
ということを信じ込んでしまい(実際には分からないが)、謀反を起こし、父親の道三を討ち取るということになった。
それなのに、龍興が、政治もせずに、だらけた生活をしていることに業を煮やした竹中半兵衛は、数名の兵で、策を弄して、本拠地である
「稲葉山城(今の岐阜城)を占領し、半年ほど立てこもった」
というんだ。
織田信長からの再三の誘いを断って、居座り続け、最後には、何と奪い取った相手である龍興に城を返すことになった。
それは、
「だらけ切っている主君に、目を覚まさせるため」
ということで、こんなクーデターまがいのことをしたというのだから、ある意味、呆れるといってもいい。
それを見込んだ信長が秀吉を使いに出して説得をさせた。
「三度の誘い」
でやっと、秀吉の家来になることを承知したということであった。
これが、竹中半兵衛の心意気ということで、彼の名前を、決定的なものにして、
「黒田官兵衛」
と並んで、
「秀吉の、両兵衛」
と称されるようになったのだ。
それが、竹中半兵衛という武将の話であった。
「自由」な村
そんな村で行方不明者がいなくなった中の一人の女性の親友で、宗像いちかという女性がいた。
いちかは、普段から、
「自分の性格は人とは違っている」
と思っていた。
もっとも、
「こんな閉鎖的な村にいるのだから、変わっていても不思議ではない」
と思うのだが、それは、
「他の村の人と比べて違っている」
という感覚ではない。
どちらかというと、そうではなく、変わっていると感じるのは、
「この村の人たちと比べて」
ということであった。
実際には、他の土地の人を知らないので、その人たちと変わっているかどうかの比較はできないが、ただ、
「この村が閉鎖的だ」
ということは分かっているだけでも、他の人とは違っていた。
というのも、
「他の人は、この村のこの考え方が普通だと思っているんだわ」
と考えていたからで、
「私は、おかしいんだ」
という考えを昔から持っていた。
だから、普段から、この村の人たちとは、どこか一線を画しているところがあったのだが、それも無理もないことだった。
いちかが、いつも一緒にいる人は限られていた。その人たちというのは、
「この村が何かおかしい」
ということを感じている人たちだったのだ。
「何がおかしいというのか?」
ということを、いちかは、ハッキリと分かっているわけではなかったが、分かっている人も中にはいただろう、
自分に寄ってくる人、あるいは、自分から、近づこうとする人は、皆、
「この村が他とは違う」
ということを分かっていて、だから寄ってきているということを実感しているくせに、そのことを話題にすると、
「その話はやめてくれ」
と言いだすのだ。
確かに、いちかもその話題を自分から出すというのは、嫌だった。
だからといって、
「避けては通れない道だ」
と感じていたのだ。
だから、聴きたいと思うのだが、それを聞こうとすると、
「やめようよ。こんな話題は」
といって、拒否られるのだった。
だから、どうしても、この話題に入るわけにはいかず、その人たちと一緒にいると、悶々としたイライラが募ってくるのが分かるのだ。
それでも、他に気心が知れた人がいるわけではない。
だから、彼女たちとつるむのだ。
ただ、つるむといっても、
「複数で集まる」
ということはしない。
それぞれ、一人ずつと付き合っているのであって、いちかが例えば、
「Aさんと付き合っているということを、Bさんは知っているのか?」
というようなことであった。
ただ、
「本当に知らないのか?」
ということまでは分からない。
それに、相手によって、それは違っているということだってあるだろう。
一緒だということをいかに考えるのかということであるが、そこまで、いちかは、相手の心を読むことができなかった。
「苦手だ」
というよりも、
「自分から、人とのかかわりについて、余計なことを考えたくない」
と思うのだ、
それを考えてしまうと、頭痛がしてきたりして、その頭痛のタネが、どこにあるのか分からない。
例えば、
「クーラーに長時間当たっていると、頭が痛くなる」
ということを、当たり前のように感じてはいるが、その理由は分からない。
一度はその理由について、
「何なのか?」
ということを考えたことがあるくせに、なぜか、考えるのをすぐにやめたのだった。
なぜ、すぐにやめたのかということを分かってもいないのだから、そのことが気になるはずなのに、いちかは、それ以上を考えない。
つかり、彼女は、
「気になることを一度は考える」
ということなのだろうが、その結論が出ているわけではないのに、
「なぜか考えることをやめてしまう」
というのだ。
考えることを辞めるというのは、まるで、
「最初から考えたという意識を自分の中で残したくない」
ということになる。
それはきっと、
「途中で分からなくなるくらいなら、考えたという事実すら、自分の中で、抹殺させたい」
と考えているからではないだろうか。
自分の中で、
「結論として理解できないことを考えてしまったのだ」
ということを、自分で恥だと思い、思ったことに対して、自己嫌悪に陥りたくないという思いを抱くのではないだろうか?
彼女の中で、
「自己否定」
ということが、一番の自分としての恐怖であり、そのことをまずは、自分で認めたくないという思いから、
「考えてしまったことをなかったことにしたい」
と考えてしまうのではないだろうか。
それを考えると、いちかという人は、
「少なくとも、他の村の、一般的な女性というわけではない」
と言えるのではないだろうか。
ただ、この村では、その
「一般的」