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ステルスの村

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 当然、これくらいのことがなければ、そもそも、シビアな村なので、金を出したりなどするわけはないのだった。

                 丑三つ時

 一日のうちで、お化けや幽霊が出るタイミングというのは、ある程度言われている時間がある。
 それを、
「逢魔が時」
 と言われる時間と、
「丑三つ時」
 だと言われている。
「逢魔が時」
 というのは、時間的にいえば、
「夕方の、夕凪と呼ばれる時間近く」
 だというのだ。
 この時間には、
「風が止んでいる時間というのがあり、いわゆる、凪と言われている時間だ。その時間は、日が沈む寸前の時間帯であり、その時間、見えているものが、光の角度と目のレンズとによるものの関係なのか、モノクロに見える瞬間がある」
 と言われるのだ。
 今でも、この時間に交通事故が多発することから、この
「逢魔が時」
 と呼ばれる時間とに引っ掛けて、
「この時間は、本当に、魔物に遭う時間ということで、ただの迷信や、都市伝説ではない」
 と言われているのだった。
 そして、もう一が、
「丑三つ時」
 と言われる時間帯で、これは、
「時間を昔から干支で時間をあらわす」
 と言われていた時のことで、
「丑の刻」
 というのが、午前1時から3時までを指すという。
 そこで、それをまた、4つに分けると、30分ごとに分けられるのだが、その
「三番目」
 ということで、
「午前2時から、2時半まで」
 というのが、丑三つ時ということになるのだ。
 この丑三つ時というのは、
「干支は方角も表している」
 ということから、丑の方角が、北東ということになり、この方角は、実は、鬼門と呼ばれ、
「鬼が出入りする不吉な方角」
 ということになると言われている。
 だからこそ、
「丑三つ時が鬼門、そして、逢魔が時が、裏鬼門」
 に当たるということで、この二つを、
「魔物にもっとお遭いやすい時間帯」
 ということになったのだ。
 しかも、今でこそ、深夜といっても、テレビは放送しているし、コンビニなども開いているので、昔から言われるような、
「草木も眠る」
 などという、まるで、幽霊講釈を聞いているような言葉も今では、当て嵌まらないのかも知れない。
 それでも、
「草木も眠る丑三つ時」
 というと、その後に続く、
「怖い話」
 というものに、十分な効果があるだろう。
 特に、神社などで、誰かを恨んだりして、怨念を込めて、
「呪いの藁人形」
 などと言われ、
「藁人形を五寸釘で、神社の柱などに打ち付ける」
 という儀式を、
「丑三つ時に行う」
 ということになるのだろう。
 しかも、それを、
「誰かに見られてはいけない」
 などということまで言われれば、いかにも、恐怖心を煽られるというものである。
 そんな話が実際に、実しやかに囁かれることがなくなったのは、やはり、
「眠らない街」
 というものが増えて、丑三つ時であろうが、いつであろうが、
「草木も眠る時間などない」
 と言われるようになったのだろう。
 草木だけでなく、人間も住みにくい時代になったものだ。
 ある意味、昔は、いろいろな村や町の、
「しがらみ」
 というものがあり、縛られることが厳しいと言われていたが、今を考えると、
「しがらみがないだけに、犯罪などに巻き込まれたり、変質者や、猟奇殺人などが起こる」
 ということになるのであろう。
 そんな中において、この村も、昔から、
「逢魔が時」
 そして、
「丑三つ時」
 というものの伝説はあったのだ。
 その伝説が言われるようになってからというもの、その時間帯を皆恐れているのは、他の村と同じだった。
 しかし、この村では、これまでに、
「神隠し」
 などというのは、ほとんど起きなかった。
 そのかわり、近隣の村では、毎年のように起こっていただけに、信心深い近隣の村の人は、この村の鎮守にお参りに来たものだった。
 そして、時代は進み、これまでに、まったく何事もなく、平和だったこの村だったが、最近、不穏な空気に包まれるようになった。
 それが、最近頻発している、
「神隠し事件」
 というものであった。
「子供が、この鎮守の近くで、行方不明になることが頻発している」
 ということであった。
 最初は、
「誘拐か?」
 とも思われたが、
「被害者を誘拐しても、犯人に何のメリットがあるというのか?」
 ということ、
 そして、これだけ村が閉鎖的なので、
「恨みを買うこともないはずだ」
 ということである。
 しかし、実際に、
「行方不明事件」
 は起こった。
 しかも、頻発するようにである。
 毎年どころの話ではない、1カ月に一度の割合というくらいであったが、ここにきて、
「五人になった」
 という時点で、その子たちが、戻ってきたのだった。
 子供たちが消えたのは、皆、
「逢魔が時」
 だったので、警察も、
「逢魔が時」
 には、十分な体制でのパトロールをしていた。
 しかし、これが次第に収まってくると、今度は、
「丑三つ時」
 に、女性が消える事件が発生した。
 女性が一人消えた時は、大人だということと、さすがに、それまで後ろめたさがあったのか、最近の女の子の夜遊びを、
「自ら自粛する」
 という人が増えてきたので、それ以上の事件は起こらなかった。
 だが、今回の女性が行方不明になってからというもの、それまで消えていた子供たちが、戻ってくるようになったのだ。
 皆一緒というわけではなく、少しずつ帰ってくるわけだが、
「どこにいたの?」
 と聴いても、何も答えない。
 何やら、術にでも罹っているのではないか?
 と思えるほど、この話を聞かれると、上の空になるのだ。
 しかし、他の時は、普段のように、子供たちと一緒に遊んだりしている。それを見る限りでは、
「とても、数か月行方不明だった」
 とは思えない。
 しかし、警察は、このままでは済ませるわけにはいかない。何とか子供たちに、事情を聴こうとして必死になるのだが、大人とすれば、
「子供たちが帰ってくればそれでいい」
 という具合に、昔からの、
「閉鎖的な村」
 という感じになったのだ。
 しかし、女性がいなくんあったのは事実であり、村人とすれば、
「彼女もすぐに帰ってくる」
 という、楽天的な考え方ではないだろうか?
 と思えるのだった。
 警察も、必死の捜索に関わらず、女性を探すことができなかった。
 同時に少年たちのことも調べられたが、一向に、要領を得られることはないのであった。
 そんな状況において、
「捜査は八方ふさがり」
 となり、一度、警察の方でも、
「捜査本部を閉める」
 ということになったのだ。
 行方不明者多発事件」
 ということであったが、分からないことはたくさんあっても、これが、事件として、どこまで成立するのか?
 ということであり、肝心の村人は、すっかり、協力体制がなくなっているのだから、警察も動きようがないというわけであった。
 それでも、刑事も-の中には諦めきれない人がいて、
「独自の捜査」
 を続けていたのだ。
「パトロールを、逢魔が時に、神社近くで絞ってみよう」
作品名:ステルスの村 作家名:森本晃次