後味の悪い事件(別事件)
「まだ、その年齢に達していないのだから、まだまだこれからだ」
ということで、意識対象ではなくなる。
また、これが年下ということであれば、
「俺とは、人間の作りが違うんだから、意識するだけ無駄だ」
ということで、これも意識対象ではない。
しかし、同級生であれば、相手が、優れているやつだと思っても、考えることとしということで、
「俺とあいつのどこが違うんだ?」
ということを考えさせられる。
それを思うと、
「俺にはいない彼女が、なぜあいつに?」
といって、歯ぎしりをしてしまう。
そして何よりも、
「俺があいつの立場で、この俺を見ているということを感じてしまうことだということなんだよな」
と感じることであった。
もう一人の自分がその友達の中にいて、
「お前は、しょせん、俺にはなれないんだ」
という優越感を思い切り醸し出しているかのようで、しかも、それを、
「もう一人の自分」
にされてしまうということは、たまったものではないということだった。
おちろん、これは、相手が、
「自分と同じ立場の人間だ」
ということを感じているからに違いない。
そんな意識がどういうものなのか?
ということを考えていると、
「男性に対しての嫉妬心」
というものが、女性に対しての嫉妬とまったく違うことに気付くのだった。
「女性の眩しさ」
というものに対して、男性のそれは、
「醜いもので、吐き気を感じさせるようなものだ」
と言えるかも知れない。
確かに、吐き気を催してくるというのは、思春期ならではであった。
「自分も同じなんだ」
ということを、何度となく感じていたが、
「想像したくない」
という思いから、
「鏡をなるべく見ないようにしよう」
と考えるのであった。
親が、
「たまには、鏡でも見なさい」
と、自分に無頓着だということを息子が感じているということが分かったのか、
「大きなお世話」
として、鏡を部屋に置いたのだ。
最初は、
「無視していればいいんだ」
と思っていたが、そういうわけにはいかなかった。
というのは、
夜になると、鏡は、部屋を真っ暗にしていても、
「ぼやけた光」
というものが見えてくるのだった。
その光を見ていると、実に嫌なものに感じられた。
「まるで霊魂が宿っているかのようではないか?」
ということであった。
霊魂というのが、
「鏡に宿る」
ということは、ホラーの世界では、一般的に言われていることであった。
怖がりのくせに、なぜかそういう話は、耳に入ってくるもので、
「テレビか何かで見たんだろうな」
と、再現フィルムのようなものが目を瞑るとよみがえってくるような気がしてくるのだった。
それを思うと、
「俺って天邪鬼なんじゃないだろうか?」
ということを感じるようになってきた。
そんな思春期において、苛めというものには、遭わなかった。
これは、やはり、
「石ころ」
というのが、優先順位として、
「嫉妬」
であったり、
「思春期の感情」
というものにも増して、強いものだということであった。
思春期において、ただ、
「嫉妬」
という感情だけが、思春期が終わっても、残ったのだ。
この嫉妬は、男女間におけるものだけではなく、
「人が表彰されたりする」
ということに対しての嫉妬だった。
スポーツなどで、全国大会に出場したり、優秀な成績を収めたっりすると、学校でわざわざ時間を作って、講堂に全生徒をあつめて、その生徒だけを称える。
などということをすることがある、
実に、バカげたことだと思う。
しかし、皆、校長が、
「○○君は、わが校の誇り」
などといって、自分が偉いわけでもないのに、そう言って、称えていて、まわりの生徒も拍手をしているが、果たして、皆、人が称えられることを、本当に誇りのように思うのだろうか?
それこそ、
「嫉妬心」
というものが湧いてこないのだろうか?
それを考えると、
「俺だけなんだろうか?」
と思うのだ。
「あれ?」
とその時感じたのは、
「俺は石ころだったはずなのに」
と感じる。
つまり、
「嫉妬心というのは石ころよりも強い」
ということであろうか?
それを思うと、実に情けなくなる。
なぜなら、苛めから自分を守るための石ころなのに、嫉妬心という、新たなあまり自分ではありがたくない感情に、
「優先順位を奪われる」
ということである。
「これほど情けないものはないのではないか?」
そんな風に思うと、
「これが俺なのか?」
とさえ思えてくるのだ。
そんな嫉妬心というものが、いかに心の中にあるか?
ということが、難しいところであった。
昔の流行歌に、
「錆びたナイフで何度も何度お刺される」
というようなものがあったような気がしたが、今思えば、
「死ぬこともできずに苦しめられている」
という感覚を思い出す。
それは封建制度時代における、
「農民というものへの考え方」
というのと同じだ。
「百姓は生かさず殺さず」
と言われていた。
「殺してしまうと、肝心の念語が収められない」
かといって、
「生かしておくと、一揆のようなものを起こしかねない」
ということになるのだろう。
言葉だけを聞けば、
「百姓は、奴隷」
ということになるのだろう。
だから、時々起こった冷害などというものが、農作物に、大きな影響を与えて、凶作となってしまっても、取り立てる方には、まったく意識がないのだ。
「今年は、コメがこれだけしか取れませんでした」
といって、微々たる量でも、本当にそれだけのものすべてを差し出しているのに、役人は容赦しない。
たぶん、取り立てないと、今度は幕府から、容赦のないことを言われかねないからなのだろうが、それこそ、
「中間管理職」
というのも、つらいところだといえるだろう。
さて、
「死ぬことも生きることもできない」
という言葉を聞いた時、思い出したのが、
「ギリシャ神話」
における、
「パンドラの匣」
の話であった。
この話は、余計なところは割愛するが、
「人間に火をあたえてはいけない」
というゼウスの命令を無視して、
「プロメテウスが、人間に、日をあたえてしまった」
ということが問題になった。
そこで、ゼウスは、人間に対して、
「パンドーラ」
と言われる、
「人類史上初めての女性」
を地上に派遣し、そこで災いを振りまくように画策したが、それと同時に、一番、直接的なバツを与えるべき、プロメテウスへのバツは悲惨なものだった。
というのも、
「これから、気が遠くなるくらいの長い間、お前を、断崖絶壁に括り付け、そこで、ハゲタカの餌食になってもらう」
というものであった。
一日目には、実際に括り付けられたところで、ハゲタカに、肉をついばまれ、死の一歩手前というほどにまで、苦しめられた。
普通であれば、
「数日で、絶命してしまうだろう」
ということであったので、
「果てしない期間」
というのは、そうもいかないだろう。
と言われていた。
しかし、このバツの恐ろしいところは、そうではなかったのだ。
もちろん、
「ゼウス」
作品名:後味の悪い事件(別事件) 作家名:森本晃次