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後味の悪い事件(別事件)

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「そうしないと、海外の情勢を考えれば、生きていくことができない」
 という時代だったではないか。
 それを思うと、
「あの時代とすれば、あれが一番正しいやり方だったのではないか?」
 ともいえるかも知れない。
 時代が進めば、今の時代でも、
「あんな、ひどい時代」
 と言われることになるかも知れない。
 そこに、教育であったり、
「倫理やモラル」
 というものが存在しているに違いないのだ。
 その頃もそうだったのだが、
「自分が見たことのない時代」
 というのを、なぜか記憶が憶えていることがあるのだ。
 というのも、
「今までに見たことがないはずのことを、初めて見たはずなのに、前にも見たような気がする」
 ということを感じるという現象があるという。
 その現象のことを、
「デジャブ」
 というそうであるが、その言葉を初めて聞いた時、
「確かに、こういう現象はあるらしいのだが、なぜ、そういう意識になるのかということは、正直分からない」
 というように聞いたのだった。
 中学生だったあの頃からは、十年くらい経っているので、時代は進み、解明されたかも知れないが、まだまだ解明されたとしても、歴史は浅い。それだけに、皆、その解明されたことを、真剣に信じている人は少ないかも知れない。
 それだけに、研究者の中には、
「その証明を覆そう」
 という意思を持って、自分なりに研究し、結論付けようとする人もいるかも知れない。
 しかし、
「研究員たるもの、人の発見をわざわざ否定し、自分の考えとして、勝手に理論づけるというのは、姑息に思える」
 というのである。
 そんなことをするくらいだったら、
「自分の理論で、新しいものを作り上げていく」
 という方が、研究者らしいではないか?
 そんなことをしていると、
「せっかくのプライドといものを、自らで壊しているようではないか?」
 ということであった。
 そんなことを考えていると、
「自分で何かを作り上げるという、クリエイティブな考えがなければ、研究者としては、失格ではないか?」
 とすら思っている。
 研究者と同じ発想を持った人が、
「芸術家」
 ではないかと思っている。
 芸術家というのは、絵にしても、文学にしても、書にしても、自分で新たに作り上げるものである。
 絵画では、
「写生」
 という形で、目の前のものを忠実に描くというのが、当たり前のように思われている人も多いだろうが、実際にはそうではない。
 確かに、充実に描いてみても、ただの物まねでは、芸術ではない。そこには個性があり、その個性を、感性で見る人間の心を打ち、
「どこかが違っている」
 と感じさせ、それの。
「どこが違っているのか?」
 ということを、考えさせるだけの力を持っている人こそが、
「真の芸術家ではないか?」
 と思えるのだ。
 だがら、芸術家の中には。
「絵を忠実に描いているようで、不要なものは大胆にカットしたり、さらには、必要と思われる架空のものを描き出すことだってある。そして、本当の芸術家は、一種に見比べても、その
「間違い探し」
 というものを。いかにできるかということに掛かっているという。
 そういう意味で、
「芸術を、クリエイティブなものだ」
 と思えない人は、すでに、芸術を愛でるという、
「資格というようなものがない」
 と言えるのではないだろうか?
 今年で25歳になる、
「清川三郎」
 彼は、25歳というと、
「まだまだ若い」
 という意識を持っていた。
 それは当たり前のことであり、この年で
「老けている」
 というのは、
「愚の骨頂だ」
 と思っている。
 というよりも、そんなことを感じることもないほどに、自分のことを健康だと、思っていた。
 それは間違いのないことで、健康っ診断でも、
「どこが悪い」
 などと言われたことはなかった。
 それは当たり前のことであり、
 せめて、
「たまにお腹を壊して、整腸剤を呑むくらい」
 であったり、
「風邪を引いた」
 といって、微熱が出て、小学生の頃などは、
「熱があるから、学校休む」
 と言おうものなら、
「ズル休みじゃないの?」
 と言われたものだった。
 おかげで、途中からは、
「ズル休み」
 と言われるのが嫌で、却って、熱があっても、何も言わず、頭が痛い中で学校に行って、先生から、
「おい、清川、大丈夫か?」
 と言われて保健室に行くと、
「頓服を呑まないといけないレベル」
 というほどに、悪化していたりした。
「無理して学校に来ることはないんだぞ」
 と諭されたものだったが、それはそうだろう。
 健康な人に移されでもして、学級閉鎖。最悪、学校閉鎖」
 などということになれば、それこそ、まずいということになるだろう。
 それを思うと、
「母親の言い方がひどいんだ」
 と思うようになったのだが、元をただせば、自分が学校に行きたくないという理由で、欺こうとしたのが、原因だったではないか。
 それを思うと、
「元々というものを、どんどん遡っていくと、どこからが始まりなのか、分からなくなってくる」
 と思うのだ。
 これはまるで、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という、
「永遠のスパイラル」
 という意識を思い起こさせる。
 それを思うと、
「物事のきっかけなど、ひょっとすると、他愛もないことなのかも知れないが、その他愛のないものであるがゆえに、見つけられない」
 という発想になる。
 それは、例えば、家計簿などを付けていて、計算が合わない時、数字が小さければ小さいほど、
「どこが間違っているのか?」
 ということが分からないというものだ。
 それこそ、双六で、ちょうどの目が出ないとゴールできない」
 という理不尽なルールになっている場合を思い出すようなものだった。
 中学時代に、絵を描いていて、大学生になると、今度は、
「音楽をやってみたい」
 と思うようになった。
 そして、ピアノに興味を持ち、ピアノを始めたのだが、まわりの皆は、ロックなどのキーボードに興味を持っていたのだが、清川は、クラシックピアノをやることにした。
 というのも、
「俺は芸術家なんだ」
 ということを考えるようになると、
「芸術の原点は、クラシック」
 と考えるようになった。
 ただ、前衛音楽のようなものは好きだった。
 そういう意味で、高校時代に、好きで聴いていた音楽で、相当昔に、一度は流行った音楽で、
「プログレッシブロック」
 というジャンルがあった。
 このジャンルというのは、
「ジャズやクラシックなどの、昔からの音楽と、ロックなどの今の音楽との融合」
 という意識があったのだ。
 クラシックは、中世ヨーロッパの音楽で、ジャズなどは、南米の情熱的な音楽ということで、ある意味、相対性のあるものなので、それら二つを融合というわけにはいかない。
 それぞれに、
「二代巨頭」
 とでもいうのか、まるで、
「東西冷戦」
 のようだが、そんなヨーロッパや南米という、まるで、
「地球の裏側」
 とでもいうようなところの音楽ということを考えると、実は、そうではないような気がする。
 というのは、あくまでも、
「地球の裏側」