生きてはいけない存在
その日は、ほぼ毎日のパトロール、正直マンネリ化してきていたので、感覚というものは、ほとんどない状態。つまりは、
「いつも見えていても、そこにあるという感覚はあるが、実際に視界に入っていたかどうか、思い出すと思い出せない」
というような状態だったのかも知れない。
というのは、
そう、この感覚は、
「石ころ」
という感覚に似ていると思った。
石ころというものは、目の前にあって、見えているのに、わざわざ、そこに石ころがあるということを意識するわけではないということだ。
つまり、
「目の前に存在していても、存在している意識はあっても、わざわざ気にしないということで、視界から消えてしまっているという感覚になることであった。
「きっと気配を感じないからなんだろうな?」
ということであり、
「兵器などで言われる、ステルスというのは、こういうものをいうんだろうか?」
と考えてみた。
ステルス戦闘機と呼ばれるものは、
「肉眼では見えるが、レーダーには引っかからない」
というものであり、まるで忍者のように、
「気配を消している」
ということになるのであろうか?
例えば、一部の動物が、身を守るために、
「保護色というものを使って、身を隠す」
というが、それこそ、
「カメレオン」
というものの存在を思わせるようなものである。
「カメレオン」
も、
「保護色で自分を守る」
という動物も、視界で捉えることができない。
しかし、気配を残していると、本能で、相手を察知できる動物であれば、すぐに気づくだろう。
特に、
「天敵」
と呼ばれるような動物であれば、
「自分の餌になる」
という意味で、気付かなければ、自分の食べるものが分からないという、一種の、
「死活問題」
となるからだ。
本来気づくはずのものに気付かないとなると、自分も、
「どこか、おかしい」
ということになるのだろう。
だから、
「天敵から身を守るため」
ということであれば、外見だけを隠すというわけではなく、
「気配もできるだけ消す必要がある」
というわけだ。
特に相手が天敵である場合は、完璧に消してしまわないと、あっという間に餌食にされてしまうのだ。
しかし、前述のように、天敵であれば、
「気配を消されると、死活問題だ」
ということになるので、
「自然界の摂理」
というバランスを保つ意味で、一定の弱肉強食は必要だ。
そうなると、
「すべての動物が、保護色と気配を消すということによって守られてしまうとなると、困ってしまう」
というのも、当然ということであろう。
そんな保護色のようなものとして、
「石ころのような存在」
というものがある。
人間であれば、
「石ころのような存在」
ということになるのであって、他の動物にも、似たような習性があるとして、それが人間と同じように、
「石ころ」
なのかどうかということは分からない。
ただ、
「人間にあるのだから、他の動物にある」
といっても過言ではないだろう。
動物は、このような、生きていくために必要なことが、本能のような形でたくさんある方が、
「下等動物」
ということになるのだろうか?
いや、逆に、このような動物の習性から、
「動物のランク付け」
というものを、人間が勝手に考えてしまっているのではないだろうか?
動物のランク付けがこのような発想になっている」
として考えたとしても、一つだけ言えることは、
「動物のランク付けにおいて、ダントツで高等なのは、人間である」
ということである。
これは、傲慢であるということに変わりはないが。
「人間には、理性というものがあり、それが、人間の中にある下等な部分による暴走を防ぐことができるのであって、それは人間だけが有しているものだ」
と言えると、当たり前のように思っているが、果たしてそうなのだろうか?
他の動物は、人間の知らないところで、実は、その特性を生かし、人間の知らないところで、ひょっとすると、異種の動物同士が、話ができているのかも知れない。
「ワンワン」
「ニャンニャン」
としか聞こえない、ペットの声であったり、
「まったく声を発していない」
と思える動物であったりと、そういえば、
「声も発しないのに、同じ種族同士で、コミュニケーションが取れているのか?」
と考えるが、そもそも、
「コミュニケーションというものを必要とするのは、人間だけなのかも知れない」
という考えであったり、
「コミュニケーションを必要としない動物がいたとしても、別におかしなことではないだろう」
という考えであったりと、それぞれに不思議ではないのかも知れない。
そんなこみにゅケーションが必要な動物を、
「高等動物」
というのであれば、
「高等動物というのは、本能の力だけで生き抜くことができないので、生き抜くために本能を補って余りあるものを持っている」
ということが定義とするべき動物のことを言うといってもいいだろう。
それが、人間であり、他の動物の中には、似たような性質をもった、
「人間に近い」
と言われる、そんな動物もいるのかも知れない。
ただ、それは、人間には分からない、それが、わざと行われていることなのか、偶然、人間が分からないというような状況に置かれているのかは、それこそ、想像の域を出ないといってもいいだろう。
人間にとって、
「石ころ」
という存在は、
「その存在を、いや、気配というものをまったく消しているものだ」
といえ、
動物によっての石ころというのも、
「相手が天敵で、保護色を使ったうえで、さらに、その気配を消そうとしている動物と似ている」
といってもいいかも知れない。
人間のように見えているわけではなく、保護色で包まれていて、さらに気配を消していても、探している方の特性から、いくら隠れても隠れきれないところがあることから、見つけてしまい、食べてしまう。
結局食べられるのだが、それでも、儚いと言われようとも抵抗を示そうとする、
「弱肉側」
ではあるが、無駄な抵抗とは言え、抵抗を試みることは大切なことだろう。
しかし、人間には、
「石ころ」
というのは、自分の、
「弱肉側」
というわけではない。
むしろ、意識などしない相手であり、目の前に見えていて、見えているということが意識もされているのだ。
それなのに、
「そこにあって不思議がない」
という意識すら感じさせないほど、無意識に装うという感覚なのだろうか。
それが、相手が、
「弱肉側」
なのか、どうなのかを分からないのだ。
そもそも、人間というのは、他の動物を相手に、
「弱肉強食」
を意識しない。
それは、自分たちの中に、
「他の動物とは違う、高等動物だ」
という意識があるからなのだろうか?
自分たちが、高等動物だということで、
「すべての生き物の頂点にいる」
ということが、当たり前のようになってきて、すでに、
「下等動物」
というのは意識しない。
ということで、自分たち人間を勝手に差別化し、太古の昔より、存在した、
「奴隷制度」
というものが、最初からあり、
作品名:生きてはいけない存在 作家名:森本晃次