生きてはいけない存在
「お互いに惹かれ合うようにして保たれている」
というものなのか、それとも、
「まるで、三すくみのように、けん制し合って、それぞれに相手を抑制する」
というような感覚のものなのだろうか?
と考えるのだ。
一見、両者は、
「どこが違うんだ?」
と言われるかも知れないが、
「違うというよりも、最初の、お互いが惹かれ合っているというのは、お互いが求め合っているというものであり、相手の影響力そのものを求めているわけではない」
ということである。
後者における、
「力の抑止力」
というものは、相手を刺激することで、状況を判断させ、自分が、その力をいかに利用することで、他の二つとも、うまく連携し、立場に甘えてしまい、一番最初に動いてしまうと、
「先に滅ぶのは、自分であり、自分を滅ぼした者の、一人勝ち」
ということになるのは、必至だということであろう。
だから、惹かれ合っている場合は、お互いに助け合うという気持ちをもつわけではなく、ただ、お互いを刺激し合っていれば、その力の均衡で、助かるというものだ。
つまりは、結果として、助かる時は、
「三人とも、助かる」
ということであり、
「死ぬ時は皆もろとも」
ということである。
三すくみのように、動けば、必ず最後どれかが一人勝ちという感覚とは、まったく違うのである。
世の中には、そんな
「力の抑止力」
というようなもの、例えば、
「大きなところでは、2代超大国による、核開発競争のようなものがそうであろう。今では核保有国はさらに増え、今は核軍縮に向かっているにも関わらず、いまだに、核兵器による、力の均衡というものを、真面目に信じている国もあるようだ」
ということである。
確かに、核兵器というものが、いかに、
「力の均衡」
という意味で一番力を発揮するかということは分かっているのだが、相手からも真剣狙われているということを、ずっと考えなければいけないということである。
ただ、今核兵器を開発している国は、
「超大国から、いつ潰されるか分からない」
という恐怖に、ずっと恐れおののいているという、一種の被害妄想に囚われているだけだということになると、この核開発は、
「妄想により、暴走している」
といってもいいのかも知れないが、実際に、超大国というものが、本当に、
「世界の警察」
というものを自認できるだけの正当性が本当にあるのかどうかも分からない。
実際に過去には、
「あの国では、核開発が、国家機密レベルで行われている」
ということを理由に、侵攻し、国家体制を崩壊させておいて、調べてみると、
「核開発を行っていなかった」
ということが判明したなどということがあった事実も存在する。
だから、いくら、
「世界の警察」
を自認している国だからといって、絶対ではないのだ。
むしろ、勝手な妄想で突っ走ることころのある、とんでもない国だということに、どこも文句を言わないという、
「国家単位での苛めの構造」
というものをあらわしているのだ。
しかも、我が国は、その国にコバンザメのようにくっつぃていて、ほとんど、属国のようになってしまっている。
「戦争をしている国に対しての無償融資」
などというバカげたことは、確かに、ソーリの、
「自分がいい顔を外国に対してしたい」
という自己満足にすぎないというのが、本当のところであるが、もう一つには、この超大国からの圧力のようなものがあり、それが、問題になっているといっても過言ではないだろう。
国家間という大きな単位ではなくとも、国家内においても、いろいろなしがらみもあるだろう、
毎日を一生懸命に生きている人間がたくさんいる中で、数十年前に起こった踏切事故。その時の大惨事というものから、しばらくは、大きな話題として、世間を騒がせたが、一度収まると、もう誰も何も言わなくなる。
「実に世の中というのは、薄情なもので、それだけ、毎日がせわしなく動いていることなのだろう」
ということであった。
石ころという存在
踏切事故というのは、
「一人の女性が、踏切に入り込んでしまって、それによって、列車が飛び込んできたということで、そのまま、轢死してしまった」
ということであった。
その時の様子を、たまたま、警ら中だった、竹下巡査が、その光景を目撃したのだった。
「いくら警官と言っても、あんな場面を見てしまうと、相当なショックを受けるというのも分からなくもないわね」
というのが、主婦が、事故後に竹下巡査のことをそうウワサしている時期があったのだった。
竹下巡査は、しばらく精神科に通うほどのショックを受け、トラウマのようになっていたのだ。
当時は、30代半ばくらいであったが、それまで警官を続けてきて、あのような悲惨な状況を見たのは初めてだった。
そもそも、竹下巡査は、昔の刑事ドラマを見て、警察に憧れたという、素直な男だった。
確かに警察に入れば、昇進試験を受けて、出世したい」
と思うのが普通なのだろうが、その頃にはすでに、そんな出世欲というものは、失せていたといってもいいだろう、
それは、
「昔憧れた警察というところと、実際に入ってみた警察との間に、埋めることのできない結界のようなものがあったからではないだろうか?」
ということであった。
それが、ガッチガチで融通の利かない体制でありながら、
「縄張り意識」
のような、まるで、
「子供の喧嘩じゃあるまいし」
ということを思わせるというものが存在しているのだった。
警察というのは、
「組織」
なのである。
組織というのは、
「規律ある一つの体制でなければいけない」
というもので、その考えは間違っているわけではないのだが、それが、いわゆる、
「お役所仕事」
という感覚と、さらに、
「組織的な発想」
というものが結びついて、理不尽なことに耐えられる人間はいいが、純粋がゆえに、耐えられない人間にとっては、
「苦しいだけだ」
ということにしかならないだろう。
そんな中において、その日の警らは、もう一人の巡査と一緒に、パトカーで、いつものコースをいつものように回っていた。
さすがに、秒単位で、まったく同じというわけではないので、普段引っかかる踏切であったり、交差点というものが存在するわけではない。
道路であれば、毎日同じだけの交通量というわけではない。
時間帯によって、
「この時間は、そんなに車の量が多いというわけではない時間帯だ」
ということに間違いはないが、だからといって、信号待ちをしている車の数は、絶えず一定ではない、却って、一定である方が、気持ち悪いくらいだ。
「信号機も、曜日によって、微妙に違っている」
という話を聴いた。そういう意味では曜日によって、違いが分かるという人には、一目稜線というだけで、他の人には難しい感覚なのかも知れない。
そんな道路と違い、線路においては、いつも決まった時間に遮断機が下りるということで、遮断機に止まっている車も、気にして見ていると、
「いつもと同じ車が多いな」
ということに気付くのかも知れない。
作品名:生きてはいけない存在 作家名:森本晃次