生きてはいけない存在
ということになると、それこそ、警察のメンツと、威信にかかわるからだといえるだろう。
結局、警察というところは、まわりの目をどうしても意識する。
下手をすれば、
「警察の不祥事や、手落ちという、あら捜しをマスゴミにさせて、それを暴くことで、世間の話題をかっさらい、自分たちの記事も売れれば、ありがたい」
ということなのかも知れない。
実際に、
「警察というものが、信用されていないだろう」
ということは、現場の刑事には分かっているような気がする。
ここ数十年での刑事ドラマ系を見ていれば、そんなにになるのは当たり前というもので、実際に、刑事として捜査をしているのを見ていると、
「横のつながりがなく、さらに、キャリア組、ノンキャリ組と、その差は歴然としていて、その間には、結界と言えるようなものが存在している」
と言えるだろう。
だから、自分たち刑事も、昔の刑事ドラマのDVDなどを見て、
「いいところ、悪いところ:
のそれぞれを感じていた。
昔の、特に昭和の時代の警察というのは、今とはまったく違う。
何と言っても、取調室や、刑事部屋と呼ばれるところは、本当に、
「役所」
という感じであった。
取り調べ室など、まったくひどいもので、灰皿に吸い殻が、山盛りになっている。
長時間に渡る、取り調べで、ストレスは最高潮、タバコの本数が増える一方なのは、当たり前だといえるだろう。
しかし、今の取調室はキレイなものだ。
何と言っても、
「禁煙である」
ということだけでも、まったく違うのだ。
昭和の頃も、基本的には、禁止されていた、恫喝による自白の強要は、かなりあっただろう、
刑事ドラマなどで、取り調べ中に、怒鳴り声をあげて、
「お前がやったんだろう?」
という言葉と同時に机を叩いて、恫喝するというやり方、もちろん今でも許されない。
「あり得ないことだ」
といってもいいだろう。
刑事ドラマなどでは、スタンドのようなものを、目にかざしたりして、完全な脅迫に近いものだったが、容疑者の態度も、かなりのものだった。
踏ん反り返っていて、刑事を睨んでいる。
そういえば、刑事ドラマの取調室では、比率から言って、
「おとなしい容疑者へんお取り調べシーンよりも、ふてぶてしい態度の容疑者の方が、数倍いたような気がする」
というくらいであった。
「警察というものを、なめんじゃねえ」
と刑事が言いたくなるのも無理もないほどのふてぶてしさ。視聴者にもそう思わせるだけの演出があるのも、無理もないことであろう。
警察が逮捕交流の場合は、48時間というのが決まっている。それでも、白状しない時は、延長もあるのだが、それでも、事件が進展しない場合は、
「証拠不十分における、釈放」
ということになる。
しかし、そこでその人を、二度と罪に問えないということはないので、警察は、
「まだ、怪しい」
と思えば、そのまま尾行をつけるというのは、当たり前のことであった。
それに、刑事の取り調べがきつく、それによっての自白は、刑事側の敗北ということになる。
というのも、ここで自白をもって、検察側は、
「起訴することになる」
であろう、
つまり、自白だけで、起訴するというのだから、これが、
「相手の狙い」
ということになるのかも知れない。
これが、裁判ということになると、基本的には、いろいろな証拠から、検事と弁護士が、それを武器にして争うわけである。
さすがに、今の検察では、
「自白をもって、送検」
ということはしないだろう。
「裁判になって、警察の行き過ぎ捜査において、自白の強要があったということを前提についてくるだろう」
ということになるのだ。
もちろん、起訴するにあたって、若干の証拠がなければ、いくら検事でも、それはないだろう。
何しろ、起訴した検事が、裁判で争うわけなのだから、しかも、相手が百戦錬磨の弁護士ということになると、よほどの証拠がないと裁判になると、厄介なことになるのであった。
警察というところは、
「捜査において、事実だけを地道に捜査している」
ということであるが、弁護士というのは、あったく違うのだ。
基本的に、逮捕拘留され、毎日取り調べを受けている中で、若干の時間の面会が許されるという程度である、
その中で、依頼人である容疑者の、
「利益を守る」
というのが、弁護士の基本的な存在意義であった。
それは、裁判に入っても続くことであるが、
検察も、弁護士も、被告人に対して、分かり切っているような質問をしたり、あつめてきた証拠を裁判所にあらかじめ提出しておいたり、さらに、証人を探してきて、出頭させたりという手順を踏んで、最後は判決ということになる。
弁護士は、
「どんなに、こちらが不利であったとして、実刑は免れない」
と考えると、今度は、情状酌量を狙って、被告の人間性を訴えてくれる、被告の知り合いを探して切る方に。舵を切ったりするのだ。
だから、
「弁護士は、被告の利益を守る」
ということで、
「この人が、犯人かも知れない」
と思っても、できるだけ、罪を軽くする方に舵を切ることも当たり前にあることだ。
そこで、弁護士として、一番大切なことは、
限られた面会時価の中で、
「私にだけは、ウソは言わないように」
というのを言い聞かせることだった。
確かに、
「犯人は、自分が助かりたい一心でウソをつく」
というのは、それこそ本能というもので、
だからといって、自分を助けてくれるはずの、弁護士に対しては、
「ウソをいうことは、本当は、自殺行為になる」
ということを分かっていないだろう。
ここで、
「ウソをつく」
というのは、裁判における、
「黙秘権」
とはわけが違っている。
というのも、裁判における、黙秘権というのは、
「自分にとって、不利になることは言わなくてもいいが、逆に口に出してしまったことは、すべて証拠として扱われる」
ということが言われるのであった。
だが、それは、
「裁判という形式的なこと」
と違って、
「その人の利益を守るため、金銭で雇った弁護士なので、相手は、裁判で勝つためには、何でもする」
ということで、必死であった、
それは、
「金銭的なところ」
でも、言われることであったが、それよりも、
「自分の弁護士としての、キャリアが、裁判に勝つと負けるとでは、雲泥の差になってしまう」
ということになるのだ。
だから、
「決して負けられない戦い」
というものをしているのだから、弁護士も必死なのである。
しかも、相手はお金を出して雇っているのだから、
「助かりたい」
と思うのは当然だが、弁護士の仕事を知らずに、
「ただ、仕事だから」
ということだけしか考えていないと思うと、結果として、
「信じ込んで、すべてを話してしまっていいのだろうか?」
つまりは、
「人を信用できなくなっている被告だっているわけで、そんな状態にした被害者に対して、過去の恨みを晴らした」
作品名:生きてはいけない存在 作家名:森本晃次