生きてはいけない存在
ということにされてしまってはたまらない。
というものであった。
そんな、
「本来であれば、仲間であり、味方だと思える人にとっては、たまったものではないのだ」
といえる。
その感情は、イソップ寓話の中にあった、
「卑怯なコウモリ」
という話に代表されるのではないだろうか?
私鉄会社の裏側
この話は、
「鳥と獣が戦争をしている」
という前提から始まるのだが、
「鳥と獣が戦をしているところに、一匹のコウモリが通りかかり、まず、鳥のところを通りかかると、怪しまれるので、自分は、羽根が生えているから、鳥だといい、今度は獣のところを通りかかると、自分は、体毛が生えているので、獣だといって、逃げ回っていたのだ」
ということである。
そのうちに、鳥と獣の戦が終わり、平和になってくると、お互いに、その時のことを話すと、コウモリの話題が浮上してくるのだった。
というのも、
「結局、どちらにもうまいことを言って逃げ回っていた」
ということで、信用できないということになり、鳥からも獣からも憎まれることで孤立し、その結果、明るい時には、表に出てくることができず、
「昼間は、暗く陰湿な洞窟の中で生活をする」
ということになり、
「ずっと洞窟の中にいることで、夜行性ということになり、しかも、長い年月で、目が退化してしまい、結局、盲目の状態で生きることになった」
その話からの派生として、
「コウモリには、超音波を発して、その反射で、何があるか? ということを知ることができる」
ということであった。
コウモリのように、
「獣に向かっては自分は獣だといい、鳥に向かっては自分を鳥だといって、逃げ回っていた」
というのが、
「卑怯なコウモリ」
という話の筋だったのだ。
これと同じように、コウモリのようにうまくいかず、ジレンマに陥るかのような、両方に対して最初から宙に浮いてしまった可哀そうな存在が、
「マナーを守って吸っている」
という人たちではないだろうか?
確かに、マナーを守っているといっても、実際に、それが正しいというわけではない。
そんな立場に嫌気が差して、タバコを止めるという人も少なくないに違いない。
タバコを吸う、吸わないは、、
「個人の自由」
ということであるが、
それゆえに、一部の不心得者がいることで、その自由すら奪われる。
禁煙者にとっては、それでタバコをやめてくれる人が増えるのは有難いが、それだけではなく、つまり、
「問題は、喫煙問題だけではなく、他にも、マナーの問題。他人に迷惑を掛けるという問題は、後を絶えないだろう」
それを考えると、
「たばこ問題に限らず、守らなければならないマナーを守らない連中がいる限り、憎悪と偏見はなくならない」
といってもいいだろう。
それを思うと、
「今は滅亡しようとしている、たばこ業界であるが、マナーを守っている人には悪いが、早く絶滅してくれるのが一番いい」
ということになる。
ただ、これも、
「依存症」
なる問題が蔓延っているので、すぐにできるものではない。下手をすると、
「永遠になくならないもの」
というものの、一つなのかも知れない。
それを、中には、
「必要悪の一つだ」
ということで、すでに確立しているものではないか?
と思っているのだった。
そんなタバコも、今はほとんど、
「瀕死の重傷」
絶滅も時間の問題というところまで来ているので、すでに、たばこ産業の大きな工場はほとんど、今や閉鎖という状態になっている。
タバコを止める人のほとんどは、
「肩身の狭さ」
というところにあるだろうが、それだけではない、
切実な問題として、
「価格の高騰」
というものがある。
ソーリが戦争をしている国に援助などをするので、財政がひっ迫し、日本の国は、
「ソーリのメンツのために、滅びようとしている」
という状態になり、こちらも瀕死であった。
それを考えると、
「価格の高騰のしょうがない」
と言えるだろう、
「今から二十年前くらいが、今の半額だった」
ということを考えれば、どれだけ高くなり、
「もう、吸えないよな」
と思わせるに十分だった。
何と言っても、
「昼のランチを食堂で食べるよりも、タバコ一箱の方が、よほど高い」
ということなのだった。
タバコが高くなったことで、余計にたばこ離れが激しくなる。
ということは、
「作っても売れない」
ということになり、どんどん、作る量が減ってくる。
そうなると、なくならないまでも、自然に、なるのは、
「限りなくゼロに近い」
という状況であろう。
だから、最後のとどめを刺すのは、
「生産者側」
ということであり、そういう意味では、本当になくなるかどうかは、微妙なところだといってもいいだろう。
そういう意味での、
「元三公社」
というのは、
「それぞれにいろいろあるのだろうが、民間に払い下げられても、よくなっているというわけではないだろう」
「ギリギリ、NTTだけが、その使命を担っているといってもいい」
と言える。
「JRは、正直、ひどいものだ」
といってもいいかも知れない。
「やっていることは、元国鉄と同じで、そのくせ、民間になったということで、そこから利益を追求しようというのだから、悪いところばかりが残った」
といってもいいだろう。
しかも、国鉄時代の赤字を解消できるわけもなく、結果、国が見放した鉄道会社を、さらにひどくしたということになるのではないだろうか?
だからといって、私鉄がいいというわけでもない。
今回の踏切事故を起こしたところは、さすがに、
「旧国鉄」
に比べれば、
「なんぼかマシだ」
というだけで、ほとんどロクな状態というわけではない。
なぜなら、他の私鉄に関しては分からないが、この地域に、
「全国有数の、私鉄」
と言われるものは、一社しかない。
かつては、プロ野球球団も持っていたのだが、
「球団を手放す」
という時代の流れに、うまく乗っかって、
「身売り」
に成功していた。
しかも、ここは、元々、県庁所在地に走っていた路面電車を廃止して、地下鉄を通すということで、その線路の土地を、自治体に、
「二束三文」
という価格で、買い取ってもらったのだ。
買い取ってもらったといっても、自治体からすれば、
「これほどありがたい」
ということはない、
それで、県も、県庁所在地の市は、その私鉄会社に対して、
「頭が上がらない」
ということであった。
その証拠に、昭和の頃から、
「このあたりを高架にする」
ということを宣言していた。
目的は、
「慢性的な朝や夕方の、踏切に引っかかることでの、交通渋滞の解消」
ということだったのだ。
しかし、そのためには、まず手掛けるのは、
「高架にするためには、駅の改良や、途中の線路沿いの家の、立ち退きが必須となる」
ということである。
作品名:生きてはいけない存在 作家名:森本晃次