一触即発の謎解き
ということではあったが、なぜか片方には映っていないことに、安心があった。
「この様子、どう見ても、この男が漂っている姿が、気持ち悪いということなので、一か所だけで十分だ」
というおかしな気分になるのだった。
そう思うと、
「明らかに妖怪の類であるが、よく見ると見覚えがある」
というのだ、
それが旦那だったのだが、女はその時、急に、男が恋しく感じられた。
あの時は、一瞬の出来事で、セックスが気持ちいいかどうかなど分かるわけもなかった。
そういう意味で、
「私も女の喜びを知ったのかしら?」
ということで。自分の反応も、
「女として、身体が勝手に旦那を欲しがっている」
と感じているようだった。
だから、鏡に写った姿であっても、それが、
「旦那だ」
と思うと、いとおしい。
逆に、一か所にしか映らないのは、それだけ、
「自分に逢いに来てくれたのか?」
という、
「自分勝手ではあるが、どこか楽天的な考え方になっているのは、無理もないことなのであろう」
ということであった。
「遠い空を見ていると、国境など、どこにあるというのか?」
ということで、
「結婚してからというもの、空を見るということが日課になっていたのだった。
彼女は、
「その思いがあるから。旦那が帰ってきてくれたと思うのだった」
理不尽ではあろうが、それでも、自分のために来てくれたというのは、マイナス面を補っても、まだまだプラスだったのだ。
しかし、
「人間というものは、その一つを貫こうとする」
と考えられるのだ。
彼女は、
「少しでも都合よく考えられるようになればいいな」
と考えるのであった。
そんな彼女が、部屋に写る、
「合わせ鏡」
に対して、どれほどの意識を持っていたのか?
ということは分からなかったが、最近、川崎という男が、戦争中から、戦後において、このようなことがあったというような夢を見ることがあったのだ。
しかも、川崎の意識としても、
「同じ夢をそんなに何度も見ることはないはずだ」
という意識があるので、自分でも、まさか、
「こんなに何度も同じ夢を見るなんて」
ということを感じるのだった。
「夢を見るということが、どういうことなのか?」
ということを考えてみた。
夢とカプグラ症候群
「デジャブ」
という言葉があるが、現実世界で、何か意識として残ったことを、眠っている時に見るのが、
「夢」
というものであり、起きている時に見るのが、
「デジャブ」
というものではないか?
という風にも考えられるであろう。
この、
「合わせ鏡」
という夢に関して、時代が自分の知っている時代ではないということから、考えられることとして、
「これは、自分の記憶の中のことではないか?」
ということであった。
というのも、
「何かのテレビドラマか、レンタルで借りたDVDなどで見たような話に印象が深く残っていて、それを思い出そうとしているのではないか?」
ということが、一番説得力のある話であった。
しかし、
「それならなぜ、その映像を見たという意識がないというのだろうか?」
というのである。
「記憶として残っているのであれば、見たという意識も一緒に残っているはずではないか?」
と考えられるのだが、そうではないだろうか?
確かに、少し怖い話であり、無意識に、
「怖い話なので、思い出したくない」
ということであれば、
「それもそのはず、説得力はあるな」
と思うのであった。
しかし、逆に、
「見た」
ということを、そこまで否定しようとするなら、
「夢に見る意味も一緒に理解できるような夢を見たいものだ」
とも感じるのだった。
夢を見るということは、やはり、
「印象に残っているからだ」
ということであろうが、
そのことを、
「夢の証明」
として結びつけるというのは、
「少し強引ではないか?」
とも考えられるのだった。
そういう意味で、
「夢を見たのは、自分が実際に見たものではないのかも知れない」
とも思えてきた。
確かに、違和感がないのは、似た時代のドラマを見たことがあり、この時代に興味を持っているというのは間違いのないことだが、夢に出てきて、その主人公は明らかに女性である。
「夢を見ている自分は男性ではないか?」
と考えるのだ。
そう思うと。
「自分の中にある記憶が一つではなく、いくつかあることで、それを意識が結び付けさせようとすることで、こんな夢を自分に見せたのではないだろうか?」
ということであった。
というのは、一つ考えられることとして、
「この夢に出てきた内容は、ドラマでもフィクションでもなく、現実なのではないか?」
と感じたのだ。
「現実だ」
という意識があるから、記憶の中にある内容が、
「夢として出てきたのだ」
と言えるのではないだろうか?
「では、この意識と記憶はどこから来るのだろうか?」
と考えると、それは、
「遺伝子が関係しているのではないだろうか?」
ということであった。
過去のご先祖様から受け継がれてきた記憶と、それに対して。
「怖かった」
という意識が残っている。
これは、一種のトラウマのようなものではないか?
とも考えられるが、そのトラウマというのは、遺伝子によって、子孫に受け継がれていくものなのだろうか?
ハッキリと、遺伝するものという意味で、
「血液型」
というものがある。
「何型と何型からは、何型が生まれるのか?」
ということは、ハッキリと分かっているではないか。
さらに、血液型で、その人の性格が分かるという、
「血液型占い」
というものもある。
「数億という人間を、たった4つの血液型で判断するというのだから、あくまでも統計的なことで、それだけたくさんいれば、言われている性格とは、まったく違うという人が、かなりの数いても当たり前のことである」
というのも説得力があり、それでも、
「血液型というのは、かなりの確率で正確だ」
という人もいる。
もちろん、数十人単位で統計を取れば、80パーセントくらい当たっているとすれば、
「すごい命中率だ」
ということも言えるだろう。
「5人のうちの4人でも、80パーセントであるし、50人のうちの、40人でも、同じ80パーセントになるではないか。だとすれば、どっちの方が確率的に高いという感覚になるだろうか?」
ということを聞かれれば、それこそ、
「感覚的なものだ」
といってもいいだろう。
人によっては、
「前者かな?」
というだろう。
理由を聞くと、
「外れている人が一人ということは、それだけ当たる可能性が高いからでは?」
と答えるだろう。
正直、疑問に感じる回答だ。
しかし、後者だと答えた人に聞くと、
「それは、聴いた人の人数が多ければ、それなりに信憑性が出るというものだよ。ただし、闇雲に多くすればいいというものではなく、そこには結界のようなものがあって、その度合いによって、説得力や信憑性が大きく違ってくるというものだよ」
という話が聴けた。
こちらには、かなりの説得力がある。