一触即発の謎解き
「自分を映し出すものとして、鏡というのは、時代を超えて君臨してきたものではないだろうか?」
ということで、重宝されてきた。
特に、天皇家の
「三種の神器」
として、
「八尺瓊勾玉」
「草薙剣」
「八咫鏡」
というものである、
そのうちの最後が、
「鏡」
ではないか。
鏡というのは、世の中だけではなく、神格化されていた天皇家にも伝えられてきたものである。
「皇位継承の際に必要なもの」
として言われてきた。
それを、平安末期に、平家が、源氏に追われ、落ち延びていく時、幼い安徳天皇と一緒に三種の神器も一緒に持って逃げたのだ。
鏡の魔力
安徳帝というのが、そもそも、
「清盛の孫ということもあり、平家が落ち延びる時、一緒に連れていくことも、当然、現在の帝なのだから、一緒に三種の神器を持って行くというのも、筋は通っているのかも知れない。
しかし、当時はまだ院政というものが蔓延っていたので、後白河法皇が、皇室でも、朝廷全体でも、その地位を確実なものとしているので、当然、天皇家としては、後白河法皇とすれば、追討を命じた源氏に対して、
「三種の神器を取り返せ」
という命令を下して当たり前だった。
それも、頼朝には分かっていることであり。
「源氏が三種の神器を取り返した」
ということになると、朝廷内での源氏の力というのは、大きなものとなるだろう。
特に頼朝は、平清盛とまではいかないが、坂東武者に対しての、長であるということに変わりはないが、いつからか、
「朝廷での力も持ちたい」
と思っていたのだろう。
特に娘の大姫に、
「皇室との婚姻」
を狙っていたのだから、それはあからさまだったようだ。
逆にいうと、それだけ、
「皇室というものの力は、武家政権においても大きなものだ」
ということであろう。
足利将軍第三代の義満公も、
「帝の力を利用する」
ということで、かなり、
「公家化」
したところがある。
秀吉も、関白だったこともあり、朝廷とは自ずと近い存在だっただろう。
信長も、朝廷に対しては、かなりの贈り物をしたりして、朝廷に取り入ろうというか、
「朝廷を利用して、権力を掌握し、自分の権力を、あからさまに示したい」
という考えだったというのは、当たり前のことのようだ。
徳川幕府も。
「あくまでも政治を、朝廷から任されて行っている」
という考えだったようで、
「菌中並びに公家諸法度」
というものを定めてはいるが、それも、
「朝廷が、あってこその幕府だ」
ということを前提に、本来であれば、朝廷が決めなければいけないことを、行
「政としての、幕府が決めた」
ということになるのだろう。
それらを考えると、
「清盛が、あれだけ必死になって、朝廷に取り入り、天皇と姻戚関係を結ぶことに必死になっていたのかが分かるというものだ」
朝廷の公家は、
「武家を、ただ怖がっているだけのくせに、心の中では、下等なものとしてバカにしていた」
といってもいいだろう。
だから、そんな公家を取り締まるのに、
「平家にあらずんば人にあらず」
と言ったとされる平時忠が、公家などが、平家の悪口であったり、クーデターを計画している場合などをさぐるために、
「禿」
とよばれる、
「密偵」
を送り込んでいた。
この禿というのは、戦などにおいて、戦災孤児となった子供たちを養い、その子たちを洗脳し、平家のための密偵として、働かせていたのだ。
こんなことは、現在ではありえないこととして、問題になることであろう。
禿というのは、それだけ、平家の兵隊であり、公家にとっては、恐怖の存在だったといえるだろう。
それを思うと、
「平家がいかに、公家を利用しながら、公家を取り締まっていたのかということが分かる」
いくら、能無しで何もできないというイメージのある公家たちであっても、京にいる限りは、
「公家社会」
であることに変わりはない。
それを無視して、自分たちの世界を作ることは無理なのだ。
何と言っても、
「数十年前までは、武士というと、公家のためにこき使われるだけの存在だったではないか?」
ということである。
清盛の父親である、忠盛の時代に、やっと、
「武士が昇殿を許される」
ということになったくらいであった。
そういう意味では、ここまでの出世というのは、
「相当なスピード」
であり、
「奇跡」
といってもいいのではないだろうか?
それを思うと、
「清盛の功績はすごいものだったといってもいいだろう」
といえる。
しかも、清盛は、対立もあったが、何とか、あの、
「後白河法皇」
をうまく使い。平家の世を、ある程度安泰にしてきた。
しかし、その清盛が死んだことで、全国の源氏の旗揚げに一役買うというくらいになったのだから、本当に清盛の力はすごかったということであろう。
清盛が死んで、すぐに、源氏が台頭してくる。
ある意味、
「火事場泥棒」
といってもいいくらいだが、この場合、
「頼朝が、できた人間だった」
ということが、鎌倉幕府の成立を見たのかも知れない。
最初の悲願は、
「平家の滅亡」
であった。
そのために、坂東武者の結束を固めて、そして、自分の力を表に出し、
さらに、
「自分の弟たちを使って、平家を追討させ、自分は、坂東をかためていく」
というのが、頼朝のやり方だった。
だから、頼朝も、清盛は宿敵であっただろうが、それなりに、リスペクトはしていただろう。
一代で衰えたとはいえ、
「公家を相手にして、天下を握る」
ということの手腕は見習うべきところがあるだろう。
何と言っても、源氏の棟梁というのは、それだけ大変なことであり、天皇家を無視できるものではないということだ。
「平家追討」
その後の、
「義経追討」
というのも、
「法皇」
であったり、
「天皇」
からの、勅命がなければできないことだからである。
平家追討と平行して、頼朝は、その拠点である、鎌倉を整備する。
鎌倉というところは、
「天然の要塞」
でもあり、源氏の祖先が、ここを拠点としていたということで、いい土地でもあった。
その鎌倉を拠点として、政治を行うためには、やはり朝廷の信任が必要だった。
そのために、三種の神器が、不可欠だったといえるだろう。
だから、義経ら、
「追討軍」
に対して、
「平家討伐だけではなく、三種の神器を取り戻すことが大切だ」
といっておいたが、結果、草薙剣が、行方不明ということであった。
頼朝の怒りは相当なものだった。
詳しくは言われていないが、
「義経追討」
ということになった理由の一つに、
「三種の神器」
というものを取り返せなかったということが絡んでいるのではないかと思えるのであった。
頼朝は、そんなことがあったせいか、結局、
「大姫を、帝の妃に」
ということを考え始めたのではないだろうか?
三種の神器の一つとして言われている、
「八咫鏡」
であるが、
そもそも、鏡というのがどういうものなのか?
ということを考えると、前述の、
「反転問題」