一触即発の謎解き
この国が、諸外国から、舐められないようにして、諸外国に、日本という主権国家というものの存在を認めさせなければいけないのだ。
そのために、
「憲法を制定し、近代国家である」
ということを示さないといけないのであった。
「西洋建築、散切り頭、肉食文化、などの文明開化。さらには、富岡製糸場などの工業製品を作るための、工場の建築などによる、殖産興業」
というものが、大切になってくるのであった。
そのためには、
「天皇の神格化」
というのが、必要不可欠なのだ。
だから、そんな時代だから、都市伝説のようなものが起こる。都市伝説というものを、
「最近のものと限らない」
ということになれば、歴史の中には、結構怖いものが潜んでいたりする。
有名なところでは、怨霊という意味で大きいのは、まずが、
「平将門」
ではないだろうか?
坂東武者に担ぎ上げられた結果になってしまったが、自分のことを
「新皇」
と呼ばせて、まるで天下を取ったかのようだった。
と言われているが、実際には、やはり祀り上げられたのかも知れない。
しかも最後は、兵を、田植えがあるからなどということで、返してしまったことで、手薄になったところを襲われた形だった。最後は、完全に自殺行為の戦争だったようだ。
ただ、このような戦闘であれば、実際にはいくらでもあった。
鎌倉末期の、
「楠木正成」
しかり、
「明治に入ってからの、西南戦争での、西郷隆盛」
しかりである。
ただ、それでも、
「平将門の怨霊」
というのは、都市伝説というところから来ているのではないだろうか?
都市伝説になりそうなことでいえば、
「乙巳の変」
の時の、蘇我入鹿の首も、かなり遠くまで飛んでいったということであった。
そもそも、蘇我入鹿というと、当時は、押しも押されぬ、天皇をも操れるくらいの、
「押しも押されぬ」
蘇我氏の当主だったのだ。
その怨霊もかなりのものだっただろう。
また、平安時代では、蝦夷征伐に向かった坂上田村麻呂が、蝦夷地の英雄と言われたアテルイを平定した時、都に凱旋する時、
「命は保証する」
と言っていたのに、田村麻呂の意見を無視した朝廷が、アテルイを処刑してしまったという事件もあった。
さらには、平安時代で、一番、いや、歴史の中でも相当の恨みによって、人が死んだりしたという、いかにも、都市伝説として、
「菅原道真」
が言われるであろう。
これは殺されたわけではなく、左遷されて、失脚させられたことへの怨霊で、かなりのものだったに違いない。
それ以降は、武士の時代に入っていくので、どれだけの武士の怨霊があることか、鎌倉時代の北条氏によるほとんどの御家人の粛清。そして、頼朝以降の源氏の将軍を切腹させたり、陰謀によって、暗殺させたりと、
「やりたい放題」
に対して、かなりのひどい恨みがあったことだろう。
その後は、
「後鳥羽上皇」
「後醍醐天皇」
などもそうであろう。
中には、女性の中にも、
「悲劇のヒロイン」
と呼ばれる人がいる。
「静御前、お市の方、細川ガラシャ」
などと、悲劇として描かれる人も多い。
ただ、女性ではなかなか怨霊というものはないが、その代わり、江戸時代には、
「お岩さん」
などの、女性の妖怪や怨霊というのが、物語に出てくる。
「このあたりから、一種の、都市伝説的な話になってくるのではないだろうか?」
と、考えられるのだ。
そんな怨霊のような都市伝説であるが、実際に恐怖のような話だけではなく、少し違う話もあるのだ。
というのは、
「霊が宿る」
というようなものが存在したりするというものも、結構あったりする。
例えば、
「鏡」
などが、よく言われるものではないだろうか?
特に、
「暗いところで鏡を見たりすると、怖い」
という話もある。
他に、鏡以外の都市伝説の中では、
「夜中に口笛を吹くと、ヘビが寄ってくる」
という話であったり、
「未確認生物」
や、
「未確認飛行物体」
などもそうであろう。
さらに、昔から、絶えず言われているものとしては、
「コックリさん」
などというのも、その一つであろう。
また、都市伝説なのか、それとも、都市伝説としては、話として定着しすぎているのか、
「妖怪全般」
ということになると、すでに都市伝説の域を出ているのかも知れない。
もちろん、
「個々の妖怪」
ということになると、メジャーな妖怪、マイナーな妖怪とそれぞれあるので何ともいえないが、実際に、コックリさんなどのように、
「話としては、誰もが知っている妖怪であっても、地域によって、微妙に違ったりするものは、一種の都市伝説としても、言われるだけに十分ば要素を持っている」
と言えるのではないだろうか?
そんな都市伝説の中で、一つ気になるのが、前述における、
「鏡」
の話であった。
鏡というものは、何も都市伝説にこだわることなく、恐ろしいと言われているものもある。
正直、ハッキリと、分かっていないことも結構あったりする。
「確かにそうなんだが、いわれてみればそうだというだけで、実際に理論的にそれを説明することはできない」
というものだ。
その一つとして、代表的なものは、
「なぜ、鏡は左右が反転するのに、上下が反転しないのか?」
ということである。
普通にそのことを聞かれても、
「当たり前のことすぎて、誰も不思議に思わないだろう」
しかし、実際に改まって言われると、最初こそ、
「何が不思議なんだ?」
と一瞬は思うだろうが、すぐに、
「ああ、確かにそうだよな」
と感じるに違いない。
その時に、
「確かに、左右は反転するのに」
と、まずは、左右が反転することを、最初こそ、
「何で左右が反転?」
と思うが、次の瞬間、
「ああ、鏡だから当たり前か?」
と感じ、上下が反転しないことを、最初は
「そりゃそうだろう」
と思う。しかし、
「いや、左右が当たり前なら、上下の方がおかしいのか?」
と考え、結局、そのことが基本となり、
「上下が反転しないのはおかしい」
という発想に落ち着くと、そこで考えが袋小路に入ってしまうので、結局は何も言えなくなってしまうのだった。
上下反転しないのがおかしいと考えると、
「鏡というのは、反転してこそ当たり前」
と考えるのだ。
つまり、この現象を。
「鏡というのが特殊なもので、鏡という媒体があるからこそ、錯覚を見るのかも知れない」
と思わせるものなのだろう。
しかし、
「鏡が、錯覚を見説のではなく、錯覚を見るのがか鏡なのだ」
という鏡の特殊性を考えすぎるのではないだろうか?
とにかく、
「自分を見ることができるのは、自分を写すものでしかない」
と思うと、鏡を筆頭に、水面であったり、鉄の板であったり、というのが、一般的な考え方であろう。
つまり、都市伝説的に考えると、
「鏡には何かが宿っているのではないか?」
と考えられる。
古来から、鏡が神聖なものだと考えられてきたのは、そのせいなのかも知れない。
何といっても、