小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

表裏の「違法性阻却」

INDEX|8ページ/20ページ|

次のページ前のページ
 

 しかし、実際にやってみると、太平洋では日本を押していて、
「絶望的な戦闘」
 を、日本にさせていた。
 しかし、最後の抵抗による日本軍の戦い方は、
「カミカゼ特攻隊」
 であったり、
「玉砕戦法」
 であり、
「最後には、兵隊だけでなく、居留民の誰も生き残るものはいない」
 というやり方であった。
 そもそも日本は戦争に入る前、
「戦陣訓」
 ということで、
「虜囚の辱めを受けず」
 といって、
「生きて捕虜になるくらいなら、死を選ぶ」
 ということが、
「正しい生き方だ」
 と教えられてきたのだ。
 しかも、教育の中で、
「捕虜に対しての扱いは、日本ではいい対応をしているが、実際には他の国の捕虜に対しての扱いは、ひどいものだ」
 ということであった。
「殺されても仕方がない」
 ということでもあり、もっといえば、殺されるというよりも、
「強制労働であったり、婦女子は、なぐさめモノにされて、屈辱に耐えられないほどだ」
 ということを教えられてきた。
 だから、
「生きて虜囚の辱め」
 という言葉になるのだった。
 それくらいなら、
「日本人の誇りをもって、死を選ぶのが日本人だ」
 ということになるのだ。
 確かに、その話はもっともである。
 中には、戦争なのだから、捕虜に対して、ひどい目に遭わせることもあっただろう。
「自分たちの仲間が、こいつらのせいで、皆死んでいったんだ」
 と思うと、誰だって、捕虜に対しての恨みを持つ者だろう。
 そもそもの戦闘の心構えは、
「こいつらに殺された、仲間の敵討ちだ」
 という思いがあってこそなのだろう。
 何しろ、アメリカであれば、別に家族が危険な目に遭っているわけではない。ただ、
「アメリカが負ければ、戦勝国から、どんな目に遭うか?」
 ということはあっただろうが、どこまでが、そうなる可能性があるのかということは分からない。
 実際に、アメリカが参加した大きな戦争では、あの時点で、負けと言えるものはなかったのだから。
 結局、アメリカの策略に乗って、日本は戦争に引き釣り混まれ、アメリカはドイツを撃破すると、後は日本だけになった。
 しかし、日本は、必至の抵抗を試みて、アメリカは苦戦を強いられる。確実に本土に迫ってはいるが、相手が、全滅戦争を挑んできているのだから、恐ろしくてなかなか手も出せない。
 そこで、絨毯爆撃による、無差別攻撃、さらには、原子爆弾使用ということになる。
 大義名分としては、
「戦争を早く終わらせることで、アメリカ兵士の被害を少しでの少なくする」
 というものだったのだ。
 一応筋は通っているが、額面通りに受け取ってもいいのあろうか?
 結果、今も核戦争に怯えることになるわけで、その時のアメリカは、
「戦争を早く終わらせるため」
 という言葉で、開けてはいけない、
「パンドラの匣」
 と開けてしまったのだ。
 それを、誰が分かっているというのか、
「アメリカという国が、まず最初に、世界がいずれ破滅するとすれば、この時に、その扉を開けてしまった」
 と言えるのではないか?
 このような話を同僚としていた串木野は、その時、
「まるで緊急避難のようだな」
 と、ボソッと口にした。
 それは、スナックに行った時に口にした言葉であったが、その時は看板時間も近かったので、それ以上の話はしなかった。
 それからしばらくは、その話にどちらも触れることはしなかったが、そのせいもあって、二人は忘れているようだあった。
 しかし、その話を思い出したかのように、どちらから言い出したのか忘れたが、その話を口に出したのは、二人が最初に、
「お互いが常連である」
 ということに気付かなかったバーでのことであった。
 そのバーの名前は、
「バタフライ」
 という。
 いわずと知れた、
「蝶々」
 である。
 だから、串木野は、その名前の由来を、思わず聞いてみた、その理由を、串木野としては、
「蝶々夫人」
 つまりは、
「マダム・バタフライ」
 から来ていると思ったのだ。
 そのつもりでマスターに聞いてみると、
「ああ、そうだよ」
 という返事が返ってきたが、どうにも、ハッキリとしない雰囲気にも聞こえたのだった。
 これに関しては、二人とも懐疑的な意見を持っていて、
「何か、他の意味があるんじゃないか?」
 と話をしたことがあったくらいだった。
 さて、ちょうど、そんな話をしていたところ、自分が言い出した記憶がないことから、たぶん言い出したのは、同僚の方であろうが、バーの名前から、どうしてこの話題が出てきたのか、若干不思議だったが、その日はなぜか、
「何でもあり」
 という気分になっていたのを感じたのだった。
「この間、フラッと口にしていた、緊急避難ということなんだけど、急に思い出したので、話をしてみたい気がしたんだ」
 という。
「緊急避難というのは、自分が危険な状況に置かれている時、その人も危険な状態にあって、もし、自分が彼を助けると、お互いに共倒れになるということが分かっている時、自分だけが助かる行動をとった時、その要件が満たされていたと判断された場合は、罪にはならない」
 ということであった。
 そこで、友達は、一つの例を持ち出した。
「俺が考える緊急避難としては、例えば、二人で登山に出掛けた時、何かの原因で、断崖絶壁から下に、二人ともが落ちそうになって、命綱のようなもの一本で繋がっているとして、その命綱が、二人を支えきれないということが分かっていた場合、上の人間は、下にぶら下がっている人間の綱を切ってしまうと、少しでも、自分が延命できるという状態にある場合を、一つの緊急避難の前提として扱えるんじゃないかな?」
 ということであった。
「そううだね、そのままの状態で、問題は助けが来るかどうかということなんだけど、もし、助けが来る可能性があって、一人なら助かるということが言える状態であれば、緊急避難の要件としては、あり得ることでしょうね」
 と同僚がいうと、
「そうだな、もし、助けが来ないという場合だと、もし、先にロープを切って、一時期自分だけが助かったとしても、結局、遅かれ早かれ、綱が切れて、自分も死んでしまうので、緊急避難でも何でもないだろう。死んだ人間を罪に問えるか?」
 ということになるだろう。
 しかし、この場合は、さすがにそこまで罪に問うということができるというのか、確かに、何かの事件があって、犯人が死んでしまった場合は、
「被疑者死亡」
 ということになるのだろうが、今回のように、
「緊急避難」
 という問題が絡んでくると、最初から、
「緊急避難が行われた」
 ということで、殺人罪ではなく、無罪ということになるのではないだろうか? 殺意の有無は、その時の状況と精神状態で変わってくるだろう、何とも言えないに違いない。
 緊急避難の話として、今度は、串木野の方が言い出した。串木野としては、
「もっと代表的な話があるだろうに、敢えて、彼がこの話をしたのには、何かわけでもあるのかな?」
 と、ちょっと感じたが、
「ただ、忘れていただけなのかも知れないな」
 とも思うのだった。
作品名:表裏の「違法性阻却」 作家名:森本晃次