表裏の「違法性阻却」
人間百年であっても、生き続けることがつらいと思い、
「自ら死を選ぼうとする人だっている」
それだって、
「人間には、生殺与奪の自由は有していない」
ということを考えれば、
「自殺というのも、許されることではない」
といえるだろう。
「生き続けること」
そこに苦しみがあるのであれば、
「死を選ぶ方が楽だ」
と思うのであれば、死なせるのが、人情ではないか?
というのが、武士道のようなものではないだろうか?
そもそも、寿命というのを100と考えるのは、人間も妖怪も同じであって、同じ時を同じように過ごしているのだから、感覚が違うとすれば、それぞれに時間に対しての考え方が違うということであろう。
「寿命というものは、死んでみなければわからない」
というが、まさにその通りであり、
「死ぬということがどういうことなのか?」
考えさせられるというものだ。
孫悟空を映像化した中で、一つ印象に残ったシーンがあった。
それは、孫悟空とお釈迦様とのやり取りの件であったが、それは、
「孫悟空の驕り」
と言えばいいのか、それを、
「お釈迦様が戒める」
というところであった。
お釈迦様が、
「天竺に三蔵と一緒に赴いて、そこでありがたいお教をいただいてくるのだ」
ということを言い渡すのだが、孫悟空は、
「そんな歩いてなど面倒臭いことをせずとも、この俺の?斗雲、一飛びすれば、天竺などあっという間に行って戻ってこれるさ」
というのだ。
「では、それが本当かどうか、試してみればいい」
というので、孫悟空は、
「いつも、自分たちの上にいて、今でいう、マウントを取っているお釈迦様を見返すチャンスだ」
ということで、孫悟空は、雲を走らせた。
実際に、雲の上を、自分の雲で、どんどん行くのだが、さすがに、果てしない。
「今までこんなに飛んできたことはないな」
ということで、さすがに、その果てしなさにビックリしていたが、そのうちに、目の前に、光るものが見えたのだ。
「おお、あれが目指す天竺」
ということで一気に飛んでいくと、そこには、五本の柱が立っているではないか。
それを見て、孫悟空は、
「これが、世界の果てというものか?」
ということで、そんな、最長不倒距離を飛んできたのは、
「この俺が初めてだろう」
ということで、何か記念になるものをということで、その柱に自分の名前を記し、サインをしたのだった。
そして、今きた道を一気に戻り、お釈迦様に報告してやろうと、意気揚々と戻ってきたのだ。
それを待ちかねていたお釈迦様は、
「どうであった。悟空よ」
と、こちらも、まったく態度を変えずにいうのだった。
する悟空は、
「俺は、ついに行ってきたぞ」
というので、
「天竺まで行ってきたというのか?」
と言われた悟空は、さらに、有頂天になり、
「いやいや、天竺などという生ぬるいものではなく、世界の果てまで行ってきましたよ」
と意気揚々というえはないか。
それを聞いたお釈迦様は、無表情で、
「ほう、世界の果てとな?」
というので、
「そら、来た」
と思った孫悟空は、
「おお、俺はそこに、自分が来たという証拠を残してきた」
というので、お釈迦様も、さらに、
「どういう証拠なのかな?」
というので、
「孫悟空と名前を記してきたのさ」
と、ここが俺の真骨頂とばかりに、叫ぶように言った。
するとお釈迦様がここで初めて笑顔になったのだが、その笑顔は、戒めとも、慈悲にも見える複雑な笑顔になった。
「どんなって、俺の名前だよ」
と少し不安そうに孫悟空がいうと、それを見透かしたかのように、お釈迦様の後光がみえた。
それまでもあったはずなのに、そのことを忘れていたかのような雰囲気だ。
「それは、これのことかな?」
とお釈迦様が指を出すと、何とお釈迦様の指の中の一本に、
「孫悟空」
という見覚えのあるサインがあるではないか?
「どういうことなんだ?」
と孫悟空は考える。
さっきまでの勢いは明らかにない。ハッキリと分かっていることは、自分が、
「お釈迦様に負けた」
ということであった。
そこで、お釈迦様はいう。
「どうだ。お前ができると言った、雲に乗れば、天竺だろうがどこだろうがいけると言ったものは、しょせんは、私の手の上のことなんだぞ」
と言わんばかりの勢いを感じるが、それは、まったく動じない雰囲気に、まるで、大きな山を感じたのだ。
「お釈迦様というのは、何と気高いものなのか?」
ということであり、さすがの孫悟空も、低頭するしかなかった。
「よいか、悟空よ。ありがたいお教というのは、楽をして手に入れられるものではない。徳を身に着けることで、人を救うことができるのだ」
というのだった。
孫悟空は、思っていたかも知れない。
「お釈迦様には、人間にはない力がおありになるんだから、人間が可愛そうだと思って行動しているのであれば、なぜ、自分のその手でやらないのか?」
ということである。
別に、三蔵法師や自分たちを使わなくとも、いつでもどこにでも現れることができるお釈迦様であれば、自分でやればいいのに、
ということである。
確かに、自分でやればいいのだろうが、三蔵がたまに言っていたのかは分からないが、
「お釈迦様には、我々にはないお考えがおありなのだ。だから、如来として君臨できるのだ」
ということであった。
孫悟空は、思っていたのかも知れないが、
「弥勒菩薩様は、人間の姿で、我々に指示をしてくださるが、お釈迦様は、あれが本当の姿なのかは分からないが、雲の上で、巨大な身体で、さらに、金ピカで、まるで、相手を威圧するかのようなお姿をされているのにも、何か意味があるのだろう」
ということである。
釈迦に遭う前は、ほとんど何も考えることなく、ただ天界を自分で支配して、自分の天下を握り、そこに君臨したいという、
「征服欲」
に塗れた、ただの
「欲の塊」
でしかなかったのだが、釈迦の前に出ると、まるで、
「ヘビに睨まれたカエル」
であるかのような雰囲気に包まれるのであった。
菩薩と如来とでは、明らかに違う。
菩薩というのは、
「悟りを開くために、今は修行の身で、数億年という天文学的数字の未来に、世界を救うために地上に降りてこられる」
と信じられているもので、
「いまだ修行僧だ」
ということである。
しかし、如来というのは、釈迦を代表として、
「すでに悟りを開いたものであり、仏像の世界では、頂点に立っている存在のことをいうのである」
ということだ。
そんな釈迦を相手に、孫悟空のような、天界での暴れ者が叶うわけはない。
人間への戒めという意味で、孫悟空というものを作ったのだとすれば、仏教文化というのは、西遊記における、
「動物の化身とともに旅をする」
というのは、妖怪なども、動物の化身として考えるからなのか、人間世界が、一番呪わしいということを暗示しているかなのだろう。
とにかく釈迦は、別格で、仏の世界でも、最高の地位を維持しているということになるのだろう。
そんな
「果てしない」
といy発想が、ロボット工学というものに対して、
作品名:表裏の「違法性阻却」 作家名:森本晃次