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表裏の「違法性阻却」

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 と、感じる人と、このことに関しては、賛否両論ではないかと思うのだった。
 それは何かというと、道端に落ちている、
「石ころ」
 である。
 石ころというと、確かに目の前にあっても、その存在を意識することはない。
 いや、意識するしないというよりも、見えているのに、あろうがなかろうが、意識はしない。
 目の前にあっても、普通にまたぐだけで、
「石ころがあったからまたいだんだ」
 ということになるのだ。
 この感覚、実は以前に、同僚と話をした中で、出てきたような気がする。
 同僚は、こういう話は好きなようで、結構、いろいろな引き出しを持っているようだ。今回は、この石ころという感覚に、少し難しい話を織り交ぜてしてくれた。ただ、同僚の話し方がうまいので、違和感がなく聞けたのだ。
 彼の話として、その時なぜ、この話題になったのか、後から思い出すことができない。
 いきなり、何かの話をしていたところから、急に同僚は、
「ロボット工学」
 の話を始めたのだ。
 同僚が、
「理系だったのか?」
 ということは分からないが、どうもこういう話は好きらしい。
「酒の肴」
 として話すのだから、あくまでも、雑学としての、ロボットの話だと思えば、
「却って、専門分野を、ひけらかすようなことはしない」
 と思えるのだった。
「ロボットというのは、昔から、タイムマシンなどと一緒に、未来の発明ということで、言われてきたが、何か、まるで、三種の神器のようだな」
 と同僚がいうので、
「2つしかないじゃないか?」
 と皮肉を込めていうと、
「いやいや、ロボットにしてもタイムマシンにしても、それぞれの謎が解明されるうちに、もう一つは出てくるものさ。何も最初から三つ揃っていなければならないなどということはないのさ」
 というのであった。
 彼がいう、
「ロボット工学」
 として、開発に対しての結界のようなものには二つあるという。
 一つは知っていた。
 これは、マンガなどで、よく話題になるものなのだが、もう一つは正直、聴いたことはなかった。
 しかし、それでも、すぐに理解できたのは、
「人間には、それを理解できるすべというものが分かっていた」
 ということなのか、
「人間の中でも、分かる人と分からない人に別れていて、俺はわかる方に入っていたのだろう。分からない人であっても、ずっと分からないわけではなく、話せばわかる人だ。しかし、もっといえば、まったく分からない人も存在する。その人は永遠に分かることはない。死んでも分からない」
 といってもいいのではないだろうか?
 ということであった。
 まずは、自分が聞いたことがある方であったが、これがいわゆる、
「ロボット工学三原則」
 というものであった。
 これの元々の基本は、
「フランケンシュタイン症候群」
 というものである。
 つまり、
「理想の人間をつくるとして、間違って、怪物を作ってしまった」
 というフランケンシュタイン博士のことで、博士が、
「怪物を作ってしまった」
 というのは、本当に間違ってなのか、それとも、出来上がったものが、悪になってしまったというものなのか?
 ということである。
 フランケンシュタイン博士でなくとも、
「人間の役に立つ。つまりは、人間が行うには、困難なことであっても、その創造物にとっては、簡単にできることであれば、その創造物にやらせればいい」
 という発想は、誰にでもあるはずである。
 ただ、
「楽をしたい」
 というだけではなく、
「人間には、限界がある」
 ということで、
「限界とはどういうものか?」
 それを知ることで、限界のないものを作り上げたいと思うことは、当たり前のことである。
 と考えられないだろうか?
 ただ、限界のないということは、
「一度火がついてしまうと、歯止めが効かない」
 ということであり、その教訓が、この、
「フランケンシュタイン」
 という物語なのではないだろうか?
 これは、一体何が主人公なのであろう?
 そもそも、怪物は存在もしていないのだ。その怪物を作り上げたのは、人間だった。
 それは、
「自分たちにできないこと、できるが大変なことを、彼らにやらせればいい」
 という、あくまでも、
「意思のないものが相手であれば、何をしてもかまわない」
 という考えである。
 これは、まるで、ギリシャ神話における、
「オリンポスの神々」
 というものが、いかに人間をその意思を無視して自分たちの都合よく扱っているかということを示したものだ。
 これは、人間が、ほとんどの下等動物を、まるで、自分のものであるかのように誤認して、それこそ
「生殺与奪の自由」
 というものを、持っているということになるのではないだろうか?
「生殺与奪の自由というのは、生物の生き死にを自由に扱うことができる権利のようなものだ」
 ということである。
 基本的には、人間に対してということで使われるものであり、この自由は、相手が人間であれば、与えられるものはないのだが、逆にいえば、人間以外のいかなる動物に対してでは、そのすべてにいえることである。
 ということである。
 これは、宗教的には、
「おこがましいこと」
 になるのではないだろうか?
 というのは、宗教において、
「人間を始めとした生命のそのすべては、神が作った」
 ということになっている。
 これは、あくまでも、神というものを創造することで、
「人間がすべてのことにおいて、優位であり、偉いわけではない」
 ということの戒めなのかも知れない。
 人間という動物は、欲を持っていて、その欲を叶えれば、そこで終わりではなく、ずっとさらにその奥を目指していくものだ。
 その欲を満たすまでには、きっと、人生と呼ばれる、百年前後では、決して満たされるものではない。
 それは、当たり前のことで、
「欲には果てがないからだ」
 と言えるだろう。
 かつての、古来から残っている物語の中で、たとえば、中国の西遊記の話などで、妖怪や化け物の類が出てくるが、彼らは、基本的に、人間よりも、はるかに長寿で、数万年も生きているという話も多い。
 しかし、それでも、彼らは、
「徳の高い坊主の肉を食うと、不老不死が得られる」
 ということで、三蔵法師を狙い、その肉を食らおうとして、孫悟空に懲らしめられるというのが、話の概要であった。
 あの話は、それなりに教訓めいたことが結構あったりする。
 時に、
「妖怪のように、数万年も生きているにも関わらず、まだこれ以上の命が欲しいというのか?」
 というような、果てしない命というものを求めている。
 しかし、妖怪によっては、
「死ぬことができないことへの苦悩」
 というものがあったりする。
 確かに、生き続けるというのは、実につらいことで、人間の中には、
「今、まだここで死にたくない」
 と思っているのに、死ななければいけない人がいるかと思えば、妖怪のように、数万年も生きていて、
「いい加減に死にたい」
 と思ってる妖怪もいるというのは皮肉なものだ。
 妖怪からすれば、
「生き続けるということも苦しいことだ」
 というが、まさにそうだろう。
作品名:表裏の「違法性阻却」 作家名:森本晃次