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表裏の「違法性阻却」

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 いきなり、人を殺そうという意識に見舞われるというのは、考え方として、
「とにかく、誰かを殺したい」
 という積極的な意識よりも、
「誰かに殺されるかも知れない。殺される前に、殺してしまおう」
 という意識としての、
「防衛本能」
 というものが働いて、
「人を殺す」
 という行動に出てしまうのだろう。
 人を殺しておいて、言い訳もないというものだが、もし、これが、
「精神疾患によるものが原因だ」
 ということになれば、
「最初から、罪に問われることはない」
 ということになるだろう。
 それが、
「衝動殺人」
と、
「通り魔殺人」
 の違いということになるのだが、
「実際に、犯罪が重たいとすれば、どちらなのだろう?」
 ということになると、難しいところである。
 それこそ、考え方によって、賛否両論があるだろう。
 通り魔殺人などは、一番卑劣な殺人である、
「通り魔」
 という場合、たいていは、一度で済むことはないと考えられる。
「一度犯行を犯してしまうと、殺人というものに感覚がマヒしてしまい、それどころか、快感に感じてしまうと、罪の意識に対しては、感覚がマヒするだろうが、犯行時においての快感に対しては、次第に高まっていくものだろう」
 といえる。
 そうなると、
「高まってきた快感が、飽きてくるまでには、どれくらいかかるだろう」
 すぐに飽きるものなのか、それとも、なかなか飽きることはないのだろうか?
 人それぞれなのだろうが、
「やはり、一度覚えた猟奇的な快感は、なかなか取れるものではないだろう」
 ということである。
 普通であれば、
「理性」
 というものが、抑えているのだろうが、逆にいえば、理性がなければ抑えられないもの。
 もっといえば、
「人間の本性の部分に関わってくることなので、理性というものを必要としないほどに、抑えることはできない」
 と考えると、
「通り魔殺人」
 というのは、理性に負けなかった意思の強さということにもなるのだろう。
 もっとも、
「殺人を犯せば、自分も終わりだ」
 ということが分かっていて、それでもやってしまうというのは、一般的に言われている精神疾患というものではないが、病的な、猟奇的な精神によって、行われているというのであれば、精神疾患よりも、たちが悪いといえるだろう。
 では、精神疾患ともいえる、
「衝動殺人」
 というのはどうなのだ?
「急に追い詰められたような心境になって、人を殺したくはないのかも知れないが、自衛のために、人を殺してしまう」
 というと、言い訳としては、一応理論としては合っているだろう。
 しかし、殺された人はどうなるというのだ? 何も悪いことをしているわけではないのに、殺されて、しかも、精神疾患ということで罪にも問われない。
 死んだ人間はともかく、残された家族としては、たまったものではない。
 稼ぎ頭である父親を殺されて、
「明日から、路頭に迷う」
 という、切実な状況に追い込まれる家族もいるだろう。
 いきなり、
「天国から、地獄に叩き落され、しかも、犯罪者に、おとがめなし」
 などというのは、本当に許されることなのだろうか?
 しかし、日本において、
「精神耗弱者は、罪に問われない」
 という法律となっている。
 これも、一種の、
「違法性阻却の事由」
 と言えるのではないだろうか?
 しかし、精神耗弱者の犯行の場合、
「精神耗弱者」
 には、自由というものが制限される。
 それはそうだろう。
「いつ何をするか分からない」
 という人間を、
「放し飼いにしているようなものだ」
 つまり、精神耗弱者となって犯罪を犯せば、その時点で、人間としての、
「自由はほとんどない」
 といってもいいだろう。
 もちろん、犯罪さえ犯さなければ、できるだけの自由は保障されていただろう。
「介護を必要とする人であれば、介護者と行動することで、ある程度の自由は許される」
 許されないとすれば、介護者が、
「不可である」
 と判断した場合で、これも一種の、民法などでいうところの、
「法律的無能力者」
 として、自由を制限されるのだが、実際には、
「自由を制限することで、その本人の生命や権利を守っている」
 と言ってもいいだろう。
 実際に、精神耗拍車ということで、
「禁治産者」
 あるいは、
「準禁治産者」
 というものが、民法上、
「法律的無能力者」
 として、定義されているのである。
 実際に、法律的無能力者は、民法においては、
「無効」
 であったり、
「取り消すことができる」
 というように規定されている。
 これは、元々、
「法律的無能力者を守る」
 ということから始まったものだが、だからといって、それを知らずに契約をした人は、「その損害を被らなければいけないのか?」
 ということになるのだ。
 確かに、このままであれば、法律的無能力者のせいで、損害を被ることになる。
 しかし、それでは、
「平等」
 という観点の、民主主義からは、かけ離れたものとなり、
「そもそもの法律の意義というものを覆す存在になりかなない」
 ということになるであろう。
 それを考えると、
「それを知らずに契約した人も守らなければいけない」
 ということから、
「すべてを無効にしてしまっては、いけない」
 ということで、
「無効のもの」
 と、
「取り消しができる」
 ということの二つに分けることができるというものである。
 ます、向こうというと、
「最初からなかったことになる」
 ということで、契約の相手は、その損害を被ることになる、
 ただ、もちりん、後から、
「法定代理人」
 という人が、追認した場合は、そうではないだろう。
 例えば、未成年が、マンション契約をしたとして、未成年の勘違いで、成人している日にちと契約日との絡みで、契約日が、
「まだ未成年だった」
 ということで、契約する相手も、そこまで気づかなかった場合なぢに当て嵌まるだろう。
 逆に、契約する相手が、
「ちょっとでも気にしていれば、すぐに気づけた」
 ということであれば、それは、
「気付かなかった方が悪い」
 というわけで、しかも、年齢が記載されていて、生年月日などの記載がある契約書だったりすれば、
「ちゃんと確認しない方が悪い」
 ということで、
「無効とされても、文句は言えない」
 だろう。
 それくらいのことは、気にしなければいけないということである。
 しかし、精神耗弱者に関しては、ハッキリと、
「おかしい」
 と分かる場合であればいいのだが、そうでなければ、普通にはわかりにくい。
 しかも、怪しいと思っても、相手に対して、
「あなた、精神耗弱者なんじゃないですか?」
 などと聴けるはずもない。
 そんなことをいきなり口にしてしまえば、それこそ、大問題であり、本当に精神耗弱者であれば、相手を侮辱した。
 あるいは、差別目的だったのではないか?
 ということになり、法律的にも、倫理的にも、
「アウトだ」
 ということになるだろう。
 それを思うと、
「相手が分からないというのは、無理もないこと」
 ということになり、いきなり、
「無効だ」
作品名:表裏の「違法性阻却」 作家名:森本晃次