表裏の「違法性阻却」
ということだってあるだろう。
好きになって、告白し、付き合っている女性を好きになったやつがいて、性格的に告白できない小心者が、好きになった人に対して、正式に告白し、相思相愛になった時点で、本来なら、諦めるべきところを諦めきれずに、結果、その二人に対して、嫉妬からの恨みが生まれたとしても無理はないだろう。
しかし、その恨みというのは、まったくの逆恨みであり、
「これほどに理不尽なことはないだろう」
と言われるに違いない。
そんなことを考えていると、
そんな場合は、
「殺されるという意識が本人にないだけで、相手にとっては、その嫉妬が殺意に変わることがないともいえない。下手なやつだと、嫉妬まで行ってしまうと、後は、殺意と紙一重だ」
と思っている人も少なくはないだろう。
だから、この場合には、殺意はあるわけだ。
警察はそんな動機を見逃すことはない。
本人は死ぬ間際に、
「何で俺が殺されなければならないんだ」
ということで、恨みを持ったまま死んでいくことになるだろう。
昔のテレビ番組で、
「恨みを持って死んだ人は、その恨みを晴らす権利がある」
ということがテーマとしてあり、
「ただし、その権利を使ってしまうと、地獄に落ち、永遠の苦しみを味わう」
ということだったように思った。
過激なテーマであるので、賛否両論があったが、この話において、
「死後の世界」
においても、
「権利が存在すれば、義務も必ず存在する」
ということで、
「地獄において、苦しみを味わう」
というのが、ここでいう
「義務」
というものになるのであろう。
「権利があれば義務もある」
この考え方がある意味カチッとした枠に嵌って考えられるのは、この、
「死後の世界」
しかないということだろう。
もっといえば、
「死後の世界」
という、
「神様の領域に達しなければ、義務というものは存在しない」
ということになり、逆にいれば、
「人間だけの世界では、発生した権利に対し、義務というものは、人間が決め手はいけない」
ということになるのだろう。
「犯罪を犯す動機」
というもので捜査をしてきて、
「捜査の中で動機のありそうな人を片っ端から洗ったが、そこで容疑者が一人もいなくなってしまったら、そこから先は、動機のない殺人という、実に漠然とした。まるで雲をつかむような捜査になってしまうのだろう」
ということであった。
実際に、動機のない犯罪を捜査するというのは、不可能に近く、もし万が一、容疑者を逮捕することができても、
「動機のなさを理由に、容疑者は頑なに証言をしないだろう」
何といっても、動機がないのだから、尋問しようとしても、何から掴んでいいのか分からない。
そうなると、
「防犯カメラにでも写っている」
というような、決定的な瞬間の姿でもない限り、何も言えないだろう。
確かに最近の防犯カメラの映像は赤外線でもついているのか、暗闇でも、人物を特定できるようなカメラなのだろう。
だからといって、それだけでは決定的な証拠にはならないかも知れない。
「被害者と、どこかで接点というものがあれば別だが、本当に動機もなく、かかわりのなかった人間を殺す」
ということもありだろう。
その場合は。
「殺されるということが、被害者に分かっていなかっただけではなく、犯人にとっても、まさか誰かを殺す羽目になろうとは」
ということもあるだろう。
いや、それ以外に、その瞬間まで、人を殺そうとは思っていなかったと言い張り、実際にそうなのかも知れないが、少なくとも、
「人に対して殺傷能力を持ったもの」
を凶器として使うのだから、
「人を殺そうとは思ってもいませんでした」
というのは、虚しい言い訳にしか聞こえない。
実際に、殺意というのがあったとしても、それは、被害者に対してではなく、
「誰でもいいから殺したい
という意識からだったに違いない。
「誰でもいいだと? ふざけるな」
と、警察の取り調べでは、それくらいのことは言われるだろう。
しかし、今の取調室は扉が開いていたりと、
「昔のような、自白を強要させる:
ということはない。
もし、そんなことをして、裁判で、
「警察に強要された」
と言われてしまうと、本来の真理とは別のところで、言い争うことになる。
つまり、裁判の最初にも入っていないということになってしまう。
だから、警察は、このあたりはデリケートなのだ。なぜなら裁判を行うほとんどの人は、
「公平に審理を行わなければならない」
ということになるのだ。
このような、裁判のようなものとして、
「どのように審理するかというのは、動機の有無によって、まったくその様子が分からなくなってしまう」
ということだろう。
なぜなら、このような犯人に対しては、
「まずは、精神鑑定」
というのが行われる。
この結果が出るのも、結構時間が掛かるようで、
「審理続行」
ということになると、あらためて、裁判が行われる。
この頃になると、
「実際の逮捕からでも、かなりの時間が経っていることだろう」
と言われるだろう。
そうなると、
「被告が事件の様相を覚えているかということで、わざと、覚えていないというのか、本当に覚えていないということでの供述なのか、自分でもよく分からなかった」
それを考えると、
「ただでさえ、審理が難しいのに、真相究明ともなると、これからさらに、時間を要する」
ということになるのか、それとも、
「すでにこの時点で、真相というものは、どうでもいいというほどの、目的も、大義名分というものもなくなってしまっているのだろう」
と言えるのではないだろうか?
そんな中で、衝動殺人というものがある。それは、自分に明らかな動機もないのに、反抗を行うことで、しかも、通り魔殺人のように、
「れっきとした殺意があるかどうか?」
というのも、怪しいものである。
つまりは。
「通り魔殺人というのは、動機というものも、殺したい相手がいるわけではないが、人を殺したいという意思はあり、その意思だけで行う、動機はないが殺意だけはある」
というものである。
そして、
「衝動殺人というのは、動機もなければ、殺意もない。ただ、反応に及んだ時、急に、誰かを殺したくなった。あるいは、何か幻覚のようなものに急に襲われて、自衛本能のようなものから、人を殺してしまう」
というものになるのかも知れない。
ある意味、
「通り魔殺人と、衝動殺人は、れっきとして違ったものだという意識はあるが、こうやって考えると、本当の境目というのは、意識できないところにあるのではないか?」
と感じるのだ。
しかし、厳密に考えると、やはり。
「通り魔殺人と、衝動殺人」
では、まったく違うものだといってもいいだろう。
通り魔殺人というのは、病的ではあるが、それは、目的や目的を達成するということに対しては、何ら精神疾患というわけではないだろう。
しかし、衝動殺人となると、その精神疾患性というものは、結構あるかも知れない。
殺人を犯すほんの少し前までは、人を殺そうという意思はなかったはずだからである。
作品名:表裏の「違法性阻却」 作家名:森本晃次