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表裏の「違法性阻却」

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 というのは、
「命を奪われるに等しいほどの、罪悪を犯したからではないか」
 ということである。
 つまり、
「死刑」
 という刑罰ということになると、民主主義であれば、確かに、家族は保護されるということになるのだろうが、昔の封建制度などであれば、武士なら、切腹、それ以外であれば、斬首などということになるだろう。
 特に、封建制度の時代などであれば、
「敵対勢力の首領」
 ということになり、
「将来に遺恨を残さないようにしないといけない」
 ということからか、下手をすれば、家族もろとも処刑ということも普通にあったのであった。
 それを思うと、民主主義の中では、
「権利というものがあれば、その裏には、その一人の人間には、義務というものが備わっている」
 と言えるだろう。
 しかし、それは、民主主義において言えることであり、上下関係のしっかりしていて、
「ご恩と奉公」
 などのように、上下関係の中の秩序こそ、法律に匹敵するほどの考え方である封建主義に、
「権利と義務」
 という考え方は、一人の人間に存在しているというよりも、上下関係において、
「ご恩と奉公」
 というような、一方通行の考え方しかないといえるのではないだろうか。
 それを考えると、
「封建制度」
 というものには存在している、
「権利」
 というものは、現在の民主主義の中で言われている。
「義務を伴う権利」
 とは、同じ権利でもその種類が違うものではないかということになるのであろう。
 それを考えると、
「今の民主主義に、生殺与奪はあっても、それは、権利ではない」
 といえる。
 なぜなら、理論上は、
「死刑になった人間の家族が、キチンと守られるかどうか」
 というのは、その保証が本当にされているかどうか分からない。
 民主主義というのは、基本的には、
「自由主義」
 でもあり、人の考え方や、思想などを、制限することはできない。
 それをしてしまうと、民主主義ではなくなってしまうからであろう。
 だから、今の民主主義において、
「死刑」
 という判決であっても、それを決定するのは、
「権利」
 というわけではない。
 司法において、キチンと下裁判が行われ、その間において、キチンとした証拠固めや証言の収拾が行われ、
「裁判員裁判」
 という司法の専門家以外の人も入っての、民主主義として、
「公平な裁判」
 が行われることで、
「死刑」
 というものが宣告されるのだ。
 これは、
「他人によって、受けた判決」
 ということであり、本当に死刑になるべき相手に容赦を掛けてしまうと、
「死刑になるべき案件でも、死刑にすることはできない」
 という前例を、判例として作ってしまい、それが定着してしまい、
「法秩序が守られない」
 ということになってしまうのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「生殺与奪」
 というものは、
「封建制とであっても、民主主義であっても存在する」
 ということであるが、
「その性質は、かなり異なる」
 ということになるであろう。
 そう考えると、
「民主主義においては、生殺与奪は存在しても、それを権利として解釈してはいけないのではないか?」
 と思うのだった。

                 衝動殺人

 今の世の中、殺人にもいろいろ種類があるが、殺人としての要件は、基本的には、
「動機がある」
 ということである。
 人を殺すには、それだけの理由があるわけで、
「動機なき殺人事件」
 というと、
「愉快犯」
 であったり、
「通り魔殺人」
 あるいは、目的は、
「婦女暴行」
 だったのに、相手に顔を見られたことでの逆上しての犯罪。
 この場合は、
「顔を見られた」
 ということが動機になっているので、厳密な、
「動機なき」
 ということではないだろう。
 ここでいう、
「動機のない」
 というのは、
「計画性の医務」
 があったのかどうかということであり、
「本当は殺すつもりはなかった」
 というのも、動機がないといえるだろうか?
 捕まった犯人は、最初には、
「殺すつもりはなかった」
 というかも知れない。
 しかし、殺すつもりはないといっても、それは、
「殺意があったかどうか?」
 ということであり、暴行を加えるだけの恨みであったり、それなりの理由はあったことだろう。
 だから、動機はしっかり存在していて、ただ、殺意があったかどうかというだけの問題で、犯罪の立証に関しては、ある意味、動機という意味では、ほとんど、言い訳でしかないだろう。
 警察だって、最初から、動機のない人間を調べたりはしない。
 まずは、捜査の最優先として、
「被害者を恨んでいたり、殺害動機のありそうな人間を洗い出し、それらの人間に絞って、その時のアリバイであったり、事件前後の行動を洗い出したりして、犯人を突き止めようとするだろう。
 つまりは、容疑者というのは、
「容疑者たる理由から、容疑者として捜査をされることになるのだ」
 ということである。
 実際に、捜査が始まると、証拠集めが行われ、必要とあれば、
「家宅捜索令状」
 を取り、家の捜索が行われる。
 これは、
「自由を一部、制限され、個人情報を、捜査のために晒さなければいけないということにより、家宅捜索令状を必要とする」
 ということになるのだ。
 そのような捜索令状を取ることで、証拠固めが行われ、平行して、容疑者が、
「逃亡、あるいは、証拠隠滅に走る」
 ということが考えられれば、こちらも、裁判所に申請し、
「逮捕状」
 というものを申請できる。
 それによって逮捕されれば、今度は、拘留されながらの取り調べが行われ、一定期間、拘留できるので、その間に、警察は、必死になって、捜査を行うのだ。
 この、
「逮捕状請求」
 というのも難しいもので、拘留期間が決まっているので、その間に事件が進展しなければ、
「証拠不十分により、釈放」
 ということになってしまう。
 基本的にそうなれば、
「警察の敗北」
 ということになる。
 だから、本当にその時に犯罪が行われたのかどうか、ある意味、
「逮捕状を請求できるだけの、証拠」
 というものも必要になるだろう。
 裁判所も、もちろん、むやみやたらに逮捕状や、家宅捜索令状というものを乱発することはできないであろうからである。
 それを考えると、
「警察の捜査というものも、確かに警察は、他の人にはない、捜査権であったり、いろいろと権力を有しているが、あくまでも、権利の元の力であり、その権利というのは、法律の下によるものだ」
 ということになるのだ。
 今の世の中において、
「動機のない犯行」
 というのは、捜査が難しい。
 なぜなら、まずは、動機のある人物から調べあげ、その中で、
「怪しい」
 と思われる人物を、まずは、犯人として、ある程度までに決めてしまっているからだといえるのではないだろうか>
 というのも、
「人間というのは、どんなに聖人君子に見えても、人から一つや二つは恨みを買っているものだ」
 と言えるのではないだろうか?
 その人にとっては、
「何でそんなことで恨まれなければならない?」
作品名:表裏の「違法性阻却」 作家名:森本晃次