表裏の「違法性阻却」
と思うのだった。
普段は、こんな失礼なことをいうやつではなかったはずだ。少なくとも、同じような考え方を普段からする男で、そうでなえれば、いくら馴染みのお店で一緒になったという偶然だけで、こんなに仲良くなるということもないはずだ。
確かに、人によっては、
「いきなり、想像を絶するようなとんでもない話を、ぶつけてくる人だっている」
という話は聴いたことがあるし、同僚でも、部下でもなく。上司にそんな人がいるということで、しばらく、悩んだこともあった。
今では、
「どうせ、いつもそんな戯言を言っているわけではないので、自分の中で、時々のことだということで、無視していればいいんだ」
ということを、自分に言い聞かせていたのだ。
確かにその通りなのだが、ほんの少しだといって割り切っていても、どうしても自分で処理できそうもない時があるというものだ。
それは、相手が急に怒り出すには相手の事情があるように、
「聞いているこっちにだって、精神的な事情というのがある」
というものだった。
それは、精神的なものだけではなく、肉体的な疲れから襲ってくるものもあるだろう。
そんな時は、普段なら、
「またくだらないことを言っている」
といって割り切れるようなことであっても、体調が悪いばっかりに、まったく許せないという気持ちが強くなることだってあるのだ。
例えば、風俗遊びのことであるが、これこそ、人それぞれ、感じ方もあれば、モチベーションもあるということで、
「すべての人に当て嵌まる」
ということはあり得ないことであるっが、串木野の中で、まず最初に、モチベーションがた落ちするのが、
「部屋が暗かった時」
であった。
その瞬間、お部屋に入るまでのモチベーションを100とすれば、一気に50くらいまでに下がるといってもいいだろう。最初の瞬間に、一気に下がってしまっては、そこから持ち上げるのは、
「ほぼ無理だ」
といってもいい。
なぜかというと、下げたモチベーションくらいにしか、自分が期待していたプレイのほとんどをしてくれない。そもそも、こっちも下がったモチベーションでは、自分から、
「責める」
ということは積極的にはできない。
少なくとも、相手に下げられたモチベーションは、
「相手によって、復活させることができなければ、自分でモチベーションを挙げたとしても、それは、自分による力であり、癒しを求めてやってきたはずなんだ」
という思いに追いつくことはできない。
そもそも、相手によって下げられたモチベーション。最初から最後まで、ほとんどが同じペースなのだ。
それだけのサービスしかできないのか、よほどその日がそういう感じなのか、さすがに店を出る時、スタッフから協力を依頼されたアンケート用紙に、いいことばかり書けないということは分かっているが、さすがに服を着て、帰りがけのことなので、自分の留飲も下がりかけている。
点数を付けるとすれば、50点なのだが、さすがにそれも気の毒だということで、70点という、しかし、その時に、
「70以下なら、赤点」
という言葉を一言付け加える。
どう、70と69では、大きな違いだ。つまり、
「ギリギリ合格点であり、その点数は最低だ」
ということを言っているのだ。
何事も許せる許せないというのは、相手との微妙な距離感がある。しかも、この話は、
「人の生き死に」
といういわゆる、
「生殺与奪の権利」
というのが、絡んできているではないか。
生殺与奪というのは、読んで字のごとしで、
「他人の命の生死というものを、任された権利」
のことを言う。
今の時代であれば、普通はありえないが、古代の、
「奴隷制度」
を認めた国家元首であったり、国家元首が認めた役人などには、奴隷を、生かすも殺すも自由という権利があったのだ。
それだけ、元首の力が強いということであり、
「国をまとめていく」
という意味では、ある程度必要だったことなのかも知れないが、
「本当に許されるのかどうか?」
ということは、
「倫理的、道徳的」
には許されることではない。
これを恒久的に許してしまうと、いずれ、支配される階級から、反乱がおきて。内側から、崩壊するということになってしまうだろう。
ただ、この生殺与奪の権利といっていいものか、果たして、
「人民や兵士が自ら死を選ぶということまで、国家元首による、生殺与奪の権利と言えるのだろうか?」
ということである。
例えば、大日本帝国軍による、
「カミカゼ特攻隊」
というもの、さらには、
「玉砕作戦」
というものは、これこそ、国家ぐるみの、
「生殺与奪の権利」
ということではないだろうか?
確かに、教育によって、
「日本という国は、天皇陛下のものであり、自分たちは、天皇陛下の子供である。だから親兄弟などの肉親を大切に思うように、愛国心は、そのまま、天皇陛下への忠誠心につながる」
と、言い回しに微妙な違いはあるかも知れないが、大まかなところでは、このような言い方であろう。
ということであった。
普段の平時においては、親兄弟を大切にする生活でいいが、いざ、戦争などの有事になると、国民は、その権利を一部制限され、国家の勝利のためを最優先として、生きていくというのが、国民のことを、
「臣民」
と呼ぶことになるのだった。
大日本帝国というのは、主権はあくまで天皇であり、国家体制というのは、今の、
「アメリカに押し付けられた民主主義」
というものではなく、
「憲法に基づいた、主権を天皇とする、いわゆる、立憲君主個々だ」
というものである。
「君主国家である以上、軍を持ち、国防体制と自らで行っていた国家だったからこそ、臣民である国民は、天皇陛下のためには、死をも恐れない」
という教育を受け、その通りだと思い込まされているのだった。
それはいい悪いの問題ではなく。
「日本という国は、まわりの国から狙われていて、さらに、不平等条約を結ばされたことで、ずっと劣等感を持ち、いずれ、世界と対等に渡り合える国を目指すということでやってきた、アジアをリードする国、ということで、かの大東亜戦争の、大東亜共栄圏というものが生まれたのだ」
ということになるのであろう。
こんな、
「生殺与奪の権利」
という言葉で、
「権利」
というものがあるが、これは、裏を返せば、
「義務」
というのも、発生するということであろうか?
もちろん、生殺を与奪する方には、権利があるのだから、与奪される方は、
「有無も言わさず」
ということなので、そこには、義務が発生するだろう。
しかし、
「逆に与奪する方に、義務は発生しないのか?」
ということであるが、それも難しい話である。
「本来であれば」
というか、
「民主主義の考え方であれば」
そこに存在するのは、
「与奪されたことによる、
「残された家族による保証」
ということではないだろうか?
ただ、これは、民主主義においてのみの発想であり、民主主義においても、他の主義においても、相手が、奴隷などというものであれば、保証ということも考えられなくもないが、基本、
「人の命を勝手に奪う」
作品名:表裏の「違法性阻却」 作家名:森本晃次