小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

表裏の「違法性阻却」

INDEX|12ページ/20ページ|

次のページ前のページ
 

 と思うのだった。
 普段は、こんな失礼なことをいうやつではなかったはずだ。少なくとも、同じような考え方を普段からする男で、そうでなえれば、いくら馴染みのお店で一緒になったという偶然だけで、こんなに仲良くなるということもないはずだ。
 確かに、人によっては、
「いきなり、想像を絶するようなとんでもない話を、ぶつけてくる人だっている」
 という話は聴いたことがあるし、同僚でも、部下でもなく。上司にそんな人がいるということで、しばらく、悩んだこともあった。
 今では、
「どうせ、いつもそんな戯言を言っているわけではないので、自分の中で、時々のことだということで、無視していればいいんだ」
 ということを、自分に言い聞かせていたのだ。
 確かにその通りなのだが、ほんの少しだといって割り切っていても、どうしても自分で処理できそうもない時があるというものだ。
 それは、相手が急に怒り出すには相手の事情があるように、
「聞いているこっちにだって、精神的な事情というのがある」
 というものだった。
 それは、精神的なものだけではなく、肉体的な疲れから襲ってくるものもあるだろう。
 そんな時は、普段なら、
「またくだらないことを言っている」
 といって割り切れるようなことであっても、体調が悪いばっかりに、まったく許せないという気持ちが強くなることだってあるのだ。
 例えば、風俗遊びのことであるが、これこそ、人それぞれ、感じ方もあれば、モチベーションもあるということで、
「すべての人に当て嵌まる」
 ということはあり得ないことであるっが、串木野の中で、まず最初に、モチベーションがた落ちするのが、
「部屋が暗かった時」
 であった。
 その瞬間、お部屋に入るまでのモチベーションを100とすれば、一気に50くらいまでに下がるといってもいいだろう。最初の瞬間に、一気に下がってしまっては、そこから持ち上げるのは、
「ほぼ無理だ」
 といってもいい。
 なぜかというと、下げたモチベーションくらいにしか、自分が期待していたプレイのほとんどをしてくれない。そもそも、こっちも下がったモチベーションでは、自分から、
「責める」
 ということは積極的にはできない。
 少なくとも、相手に下げられたモチベーションは、
「相手によって、復活させることができなければ、自分でモチベーションを挙げたとしても、それは、自分による力であり、癒しを求めてやってきたはずなんだ」
 という思いに追いつくことはできない。
 そもそも、相手によって下げられたモチベーション。最初から最後まで、ほとんどが同じペースなのだ。
 それだけのサービスしかできないのか、よほどその日がそういう感じなのか、さすがに店を出る時、スタッフから協力を依頼されたアンケート用紙に、いいことばかり書けないということは分かっているが、さすがに服を着て、帰りがけのことなので、自分の留飲も下がりかけている。
 点数を付けるとすれば、50点なのだが、さすがにそれも気の毒だということで、70点という、しかし、その時に、
「70以下なら、赤点」
 という言葉を一言付け加える。
 どう、70と69では、大きな違いだ。つまり、
「ギリギリ合格点であり、その点数は最低だ」
 ということを言っているのだ。
 何事も許せる許せないというのは、相手との微妙な距離感がある。しかも、この話は、
「人の生き死に」
 といういわゆる、
「生殺与奪の権利」
 というのが、絡んできているではないか。
 生殺与奪というのは、読んで字のごとしで、
「他人の命の生死というものを、任された権利」
 のことを言う。
 今の時代であれば、普通はありえないが、古代の、
「奴隷制度」
 を認めた国家元首であったり、国家元首が認めた役人などには、奴隷を、生かすも殺すも自由という権利があったのだ。
 それだけ、元首の力が強いということであり、
「国をまとめていく」
 という意味では、ある程度必要だったことなのかも知れないが、
「本当に許されるのかどうか?」
 ということは、
「倫理的、道徳的」
 には許されることではない。
 これを恒久的に許してしまうと、いずれ、支配される階級から、反乱がおきて。内側から、崩壊するということになってしまうだろう。
 ただ、この生殺与奪の権利といっていいものか、果たして、
「人民や兵士が自ら死を選ぶということまで、国家元首による、生殺与奪の権利と言えるのだろうか?」
 ということである。
 例えば、大日本帝国軍による、
「カミカゼ特攻隊」
 というもの、さらには、
「玉砕作戦」
 というものは、これこそ、国家ぐるみの、
「生殺与奪の権利」
 ということではないだろうか?
 確かに、教育によって、
「日本という国は、天皇陛下のものであり、自分たちは、天皇陛下の子供である。だから親兄弟などの肉親を大切に思うように、愛国心は、そのまま、天皇陛下への忠誠心につながる」
 と、言い回しに微妙な違いはあるかも知れないが、大まかなところでは、このような言い方であろう。
 ということであった。
 普段の平時においては、親兄弟を大切にする生活でいいが、いざ、戦争などの有事になると、国民は、その権利を一部制限され、国家の勝利のためを最優先として、生きていくというのが、国民のことを、
「臣民」
 と呼ぶことになるのだった。
 大日本帝国というのは、主権はあくまで天皇であり、国家体制というのは、今の、
「アメリカに押し付けられた民主主義」
 というものではなく、
「憲法に基づいた、主権を天皇とする、いわゆる、立憲君主個々だ」
 というものである。
「君主国家である以上、軍を持ち、国防体制と自らで行っていた国家だったからこそ、臣民である国民は、天皇陛下のためには、死をも恐れない」
 という教育を受け、その通りだと思い込まされているのだった。
 それはいい悪いの問題ではなく。
「日本という国は、まわりの国から狙われていて、さらに、不平等条約を結ばされたことで、ずっと劣等感を持ち、いずれ、世界と対等に渡り合える国を目指すということでやってきた、アジアをリードする国、ということで、かの大東亜戦争の、大東亜共栄圏というものが生まれたのだ」
 ということになるのであろう。
 こんな、
「生殺与奪の権利」
 という言葉で、
「権利」
 というものがあるが、これは、裏を返せば、
「義務」
 というのも、発生するということであろうか?
 もちろん、生殺を与奪する方には、権利があるのだから、与奪される方は、
「有無も言わさず」
 ということなので、そこには、義務が発生するだろう。
 しかし、
「逆に与奪する方に、義務は発生しないのか?」
 ということであるが、それも難しい話である。
「本来であれば」
 というか、
「民主主義の考え方であれば」
 そこに存在するのは、
「与奪されたことによる、
「残された家族による保証」
 ということではないだろうか?
 ただ、これは、民主主義においてのみの発想であり、民主主義においても、他の主義においても、相手が、奴隷などというものであれば、保証ということも考えられなくもないが、基本、
「人の命を勝手に奪う」
作品名:表裏の「違法性阻却」 作家名:森本晃次