表裏の「違法性阻却」
「代理戦争」
という構図と、
「核戦争」
というものであった。
しかし、この二つは結びついていて、
「代理戦争の形になってしまうのは、核戦争の恐怖が、そこに潜在しているからだ」
ということである。
核戦争というのを、ある人が表現したことに、
「二匹のサソリをケースに入れた状態」
ということであった。
というのは、
「それぞれに、相手を殺すことはできるが、それは逆に、自分も殺されるということを意味している」
ということであった。
この場合は、
「一匹だけ生き残る」
ということはできない。
必ず、どちらかが生き残るということはできないというのだ。
だから、二匹とも様子を伺って、動くことができない。気を許してしまうと、相手に付け込まれることになるからだ。
と言えるだろう。
こういう場合の
「まったく動くことのできない状況において、自分だけが助かるということはできないものだろうか?」
ということであった。
一つできるとすれば、それは、
「三すくみ」
の関係である、
たとえば、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
の関係である。
それぞれに、天敵であるということが、サイクルになっているのが、三すくみということになるのだが、
「ヘビはカエルを食べ、カエルはナメクジを食べる。しかし、ナメクジはヘビを溶かしてしまう」
ということで、それぞれの三匹を先ほどの、
「二匹のサソリ」
と同じような状況にしたとしよう。
すると、三匹は、それぞれにけん制し合って、身動きすることはできないだおう。
例えば、
「ヘビがカエルを飲み込もうとすると、これ幸いと、ナメクジが、ヘビを溶かしに来る」
「カエルが最初に動けば、今度は、ヘビの餌食になる」
というように、順繰りになっていることで、身動きが取れないのだ。
このような三すくみの場合は、基本的に、
「最初に動いた方が、負け」
ということになるのだ。
「もしヘビが先に動いて、カエルを食べれば、ナメクジは天敵であるカエルがいなくなったおかげで、心置きなく、ヘビを食べることができる」
要するに、
「ナメクジの一人勝ちだ」
と言えるだろう、
しかし、実際には、この檻に入れられた時点で、遅かれ早かれ、この三匹は終わりなのだ。
どういうことなのかというと、
「ナメクジは、ヘビを食べた時点で、自分だけになってしまう。これはどういうことを意味しているかというと、餓死するのを待っているだけだ」
と言えるだろう。
そう、それぞれに一食分しか、餌がないのだ。
「先に食うか、食われるか?」
という違いだけで、世の中では、生き残るために、十分な食料がなければ、しょせんは餓死するということになるのだ。
だから、この三すくみの状態では、
「優劣の関係にはない」
と言えるだろう。
それぞれに天敵はあるが、食べてしまうと、こちらがやられるというだけで、生き残りはできないのだ。
しかし、人間は、他の動物と違い、文明を作れるだけの力がある。だから、まるで地球人が、地球の代表のようになっているが、果たしてそうなのだろうか?
宇宙人の中には、
「人間には、圧倒的に強いが、他の動物に関しては、まったく相手にならない」
というほど弱いこともある。
ということであると、宇宙人からすれば、人間など相手にするよりも、天敵をどうしようか?
ということになるだろう。
特撮番組で、宇宙人が地球人を怖がっているわけではなく、地球に来ている、
「正義のヒーロー」
というものを怖がっているということであろうが、実際に、人間を怖がっていないが、地球上にある何かを怖がっているということもあるだろう。
三すくみではないが、宇宙人が、地球人を怖がっていないというのは、基本的なことのようで、そうでないと、
「正義のヒーロー」
というものの、
「存在意義がない」
と言えるだろう。
それを考えると、地球人が、弱い存在という設定を、その人間が作るというのは、実に滑稽で、
「何が目的なのか?」
ということになる。
やはり、人間の強くない部分を補ってくれる存在が、不可欠であり、それが、自衛のための兵器であったり、兵力であるということでの、
「当時の再軍備」
という考え方を担っているのではないだろうか?
緊急避難というものが、
「曖昧なこと」
ということなので、特撮でも、いい加減になってしまうということだろう。
だから、
「却って、難しい」
といってもいいだろう。
たとえば、プロの作家が、編集部から言われることとして、
「テーマは自由で、とにかく面白いもの」
という注文の場合、普通の人なら、
「なんだ、簡単ではないか?」
と言われるかも知れない。
しかし、
「何でもいい」
というのは、却って難しいというものだ。
というも、
「何でもいい」
ということを言われているので、面白くなければ、
「それは、作家の責任」
ということで、言い訳は許されないということ。
つまり、面白くなければ、それは、作家の責任ということで、下手をすれば、次からは、
「依頼が来ない」
ということになっても仕方がないといえるだろう。
アマチュアであれば、
「そんなことが分からない」
というわけではない。
なぜなら、
「素人であろうと、プロであろうと、作品に向かう姿勢に変わりはない」
といえるだろう。
そういう意味で、
「文章を書いたりするのに、プロもアマチュアも関係ない」
と言われている。
小説家が、
「人間を書く」
とすれば、特に注文がないとすれば、
「地球上で一番優秀で偉い動物であり、しかも、一番弱い立場だということを書くのだった」
つまりは、
「両極端」
という方が、ドラマを書く上で、書きやすいだろうし、見る方も、
「いかにも、人間らしい」
ということで、自分に照らし合わせて見ることであろう。
つまり、人間らしさというのは、この
「両極端」
というのは、
「逃れることのできないもの」
ということで、性格的に合場広く描かれることであろう。
もっといえば、
「ジキルとハイド」
のような、
「二重人格」
というものが、人間の本能として潜んでいるとすれば、これは、
「他の動物にはないものだ」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「人間がこれだけ弱いものだということを、いかに補うかと考えれば。そこに、多重人格性というものが、孕んでいるといってもいいだろう。
それが、人間の本能というものであり、
「動物的な勘」
というほどの本能でなくとも、人間として、弱さを出しながらも、生きていけるということであろう。
しかし、この緊急避難というのも、同僚に言わせると、
「いろいろな理由はあるが、そんな緊急に避難しなければいい場所に行かあければいいだっけど、船に乗って行こうとするから、船が沈没するんじゃないか?」
というような言い方をした。
これは、
「どうしても、それに乗らなければいけない人がいて、その人が、遭難して、人間として当たり前の、助かりたいという意思を完全に蔑ろにしたもので、これ以上失礼千万なことはない」
作品名:表裏の「違法性阻却」 作家名:森本晃次