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 実際に、新人賞を取るのが大変だということは、誰にでも分かることである。
「何百という、自信作を送ってきている中から、賞を取るというのは、それこそ、司法試験に合格するより難しい」
 という、比較対象がおかしい話をする人もいるようだが、確かに、高度なところでの争いともなると、想像もつかない感覚になったりすることもあるだろう。
 それを思うと、
「学校の入学試験にも言えることではないか?」
 と考えられる。
「中学から高校への入試など」
 先生などが、
「今のままなら、志望校は、ほぼ大丈夫だろう。それなら、もう一ランク上げてもいいかも知れないな」
 と簡単にいうので、親の意見もあって、
「それじゃあ、もう一つ上の学校を受けてみるか?」
 ということで、試験を受けると、
「見事に合格」
 ということになったとしよう。
 だが、入学してみると、今までとは明らかに勝手が違うのだ。
「今までの中学時代は、クラスでも成績はトップクラスで、
「優等生」
 と、自他ともに認めていた。
 ということであるが、しかし、高校にいくと、そうではない。
 ランクを上げるということは、それだけ、優秀な生徒が集まってくるということだ。
 つまりは、
「今までは、トップクラスで、自分でも、自信過剰なくらいになっていたのに、実際に高校に入ってみると、劣等生の肩書を付けられてしまうというほどになっていた」
 というのである。
 生徒によっては、
「負けてなるものか」
 という反骨精神を持っていればいいのだが、そうでなければ、
「劣等性というレッテルを貼られたことで、これまでのプライドが音を立てて崩れていき。プレッシャーに押しつぶされそうになる」
 というものである。
 もっとも、成績がよかったとしても、さらに上を、ということになるのであれば、どこまで行っても、プライドとプレッシャーの板挟みから、どうにもならない精神状態となり、
「病んでしまう」
 という生徒もいるだろう。
「引きこもり」
 になったり、
「鬱病」
 などになったりして、立ち直れない人も多いのではないだろうか?
 小説家としてデビューしても同じこと。絶えずプレッシャーに立ち向かいながら、前を向いていくしかないのだ。
「賞の受賞は、ゴールではなく、やっとスタートラインに立っただけで、問題は、次回作に、受賞作よりもいいものが書けるか?」
 ということであり、ここが最初の小説家としての、ターニングポイントではないだろうか?
 小説家というものに限らず、
「賞を受賞し、それでプロになる場合は、次回作が大切だ」
 と言われる。
 作家の中には、
「何度も応募して、ずっと落選を繰り返していると、次第に、自分の作品が、どんどん色褪せてくるのではないか?」
 と感じる人もいるだろう。
 最初の頃は、プロを目指して、意気揚々と作品を作り、もちろん、
「最初はそんなに簡単にプロデビューなどできるはずがない」
 と分かっているので、だからこそ、気持ちに余裕もあるし、応募できる作品を作ったというだけで、満足していたりしたのだが、そのうちに、自分の作品が、
「そんなに、誰の目にも止まらないのか?」
 という風に、感じるようになり、それがプレッシャーとなって、どんどん、ネガティブに感じられる。
「俺は、いくら努力したってダメなんだ」
 と考えてみたり、
「俺には、前の作品以上の作品が作れない」
 と思うだろう。
 それも、無理もないことだ。
「これ以上ない」
 という作品を作るということを目標とするくらいにしないと、いい作品は作れないと考えて、作品を作っているのだから、
「次がある」
 などという甘っちょろいところ考えていると、せっかくいい作品を作ったとしても、うまくいくはずがない。
 それを考えると、
「どんどん、落ちていくごとに、自分の作品が落ちていくような気がする」
 と思うようになると、
「永遠に、受賞なんかおぼつかない」
 と考えるだろう。
 そして、マンネリ化した頃に、受賞すると、それまでのストレスを忘れるくらいになればいいのだが、却って、自分の受賞がウソであるかのように感じ、それがマンネリ化した気持ちと相まって、
「今回の作品が、俺の最高傑作なんだ」
 と思い込むことで、結果、
「それ以上の作品を、俺は作ることはできないんだ」
 と考える人が、結構いるようだ。
 つまり、
「燃え尽き症候群」
 というものであろうか?
 それなのに、世間は許してくれない。
「おめでとうございます」
 といって、褒めてくれる言葉の裏には、
「今度の作品は、もっとすごいんでしょうね?」
 という期待なのか、それとも苛めなのか、それを考えると、どうしていいのか分からなくなるのだ。
 それを考えると、
「これほどのプレッシャーはない」
 と考える。
「俺は、受賞だけで満足していればいいんだ」
 という考え方と、
 なまじ受賞などしてしまったもので、感じたくなかった、
「自分の限界」
 というものを、感じてしまったんだということを感じるのだった。
 人間というもの、
「自分の限界を感じると、それ以上先に進むということができなくなる。それは小説だけに限らず、すべてのものに限界があることを、いまさらながらに、おもい知らされるのである」
 と感じてしまうのだった。
 それを思うと、
「てっぺんを一度見てしまうと、よほどの精神力がないと、そのてっぺんで自分が生き続けることができないのだろう」
 と思うのだった。
 そんなことを考えていると、早々と、
「プロ作家になる」
 という夢は、ほとんど、なくなってきた。
 それよりも、
「趣味として書いている方が、よほど気が楽だ」
 と思えるようになってきた。
 何と言っても、自分の好きなように書けるということが一番で、何よりも、
「小説を書いている」
 ということが、どんな趣味よりも、自分を輝かせてくれる気がしたのだ。
 というのは、ある意味、きれいごとであって、正直、
「プロになる」
 ということから逃げている。
 と言われても仕方のないことなのだろうが、現実、プロになるだけではダメで、そこからの継続ができなければ、続かない。
 先にまずは、継続できる力があるのかどうか、そこを自分で知っておかなければいけないということで、アマチュアの間にそこまでにしておく必要があるということになるのであろう。
 そんなことを考えていると、自分がどんどん、プロになるということに対して、嫌になっていくのを感じた。
 プレッシャーを感じながら、相手の要望にこたえなければいけないなどというのは、自分の中では、
「愚の骨頂にしか思えない」
 のだった。
 そんな、
「プロにはなれないが、自分の本を出したい。出すことで、あわやくば、編集者の目に触れて、そこからプロの道が芽生えてくるかも?」
 という淡い期待の下、本を出してみると、
「実は詐欺商法だった」
 というのを見ると、そこから、
「何か趣味を持ちたい」
 と、バブル後に考えた人で、その中に、
「お金のかからない手軽な趣味」
 というだけで、小説を書くということを始めた人は、脱落していくことだろう。
作品名:交換幇助 作家名:森本晃次