交換幇助
「七掛けで、買い取ってほしい。それができない場合は、廃棄処分」
などという、とんでもないことを言いだしたのだ。
著者からすれば、
「元々、協力出版という形で、本を作った。ほんの製作費はもちろんのこと、営業や、宣伝費も含めての折版だったはず。それなのに、七掛けというのはどういうことか? そもそも、出版社の努力が足りず、本屋に置いてもらえないことで、当初の契約である、有名書店に一定の期間、置いてもらうという条件が満たされていないから、裁判を起こされたのではないか?」
ということである。
つまり、
「倒産に関しては、本の原作者には一切の落ち度はないのだから、なぜ、このような仕打ちを受けるというのか?」
ということであるが、
「いやいや、出版社の取引先も、一切の非はないのに、債権放棄を言われているのだ」
と弁護士はいうが、
「いやいや、その変わり、他の会社などでは、現金取引での取引継続であったり、少しは、取引先にも、選択肢があるだろうに、我々には、七掛けで買うか、それとも、廃棄するかという、飲めるはずのない条件を、一方的に言ってきているんじゃないか?」
ということであるが、
「さすがに、民事再生法というのは、あくまでも、申請者に対しての法律で、完全に、逃げるが勝ちということではないか?」
というのだった。
「なるほど、弁護士のモットーは、その行為がいい悪いに関係なく、すべては、依頼人の利益を守ることが、最優先」
というものであり、完全に、金本位だといってもいいだろう。
それを思うと、法律というものが、
「いかにひどいものなのか?」
つまりは、
「公平をモットーとしているはずなのに、これほど理不尽なことがまかり通るというおかしなものなのだ」
ということになるのであろう。
それが、法律というものであり、それを隠れ蓑として、なるべく負債を小さくしたまま。2,3年だけという短い間、一世を風靡した、
「自費出版社系の会社」
は、この世から、姿を消していくのであった。
高杉は、そんな出版社が、
「こいつは、詐欺だ」
というのを、ある提訴最初の頃に気づいていた。
これは、おじさんから聞いた話だが。おじさんも、同じように、
「バブルがはじけた」
ということをきっかけに、小説執筆という趣味を持ったのだ。
年齢的にはまだ40歳代だったので、
「まだまだ、プロになるにも、これから頑張れば」
と思っていたようだ。
そんな時、これ見よがしに雑誌に載っていた、
「本にしませんか? あなたの原稿をお送りください」
というものであった。
おじさんは、
「これは、願っても叶ったりだ」
ということで、その頃やっと、作品を完成させられ宇ことができるようになって、有頂天だった時期もあって、
「これは送らない手はない」
ということで、原稿を送ることにしたのだ。
原稿を送ってみると、相手の営業から、早速返事がきて、他の人が見れば、
「まるでテンプレートのような回答だ」
と思うのだが、おじさんは、感激した。
やはり、信憑性という意味で、ありがたいと思ったのだろう。
出版社の人から連絡もあり、批評をさらに、言葉にして言われれば、有頂天になっているだけに、柄にもなく、自分への自信を完璧に感じ、
「相手を疑う」
という感覚が、麻痺してしまったのだ。
感覚がマヒしてくると、
「とにかく、出版社の人の話を聞いてみよう」
と考えたのだ。
そして、もうひと作品を評価してもらうと、これも同じような感想で、その時、少しだけ、
「前の文章とあまり変わりはない」
と感じたが、それ以上のことを感じることはしなかったのだ。
それだけ、
「正常な中に、麻痺した感覚がある」
というわけではなく、
「マヒした感覚の上に、ちょっとだけ、まともな感覚が残っていた」
という感覚になってしまったのだ。
それを思うと、
「この出版社。本当に信じていいのだろうか?」
という思いが少し出てくると、それが次第に大きくなってきた。
やはり、最初に全面的に信頼してしまうと、今度は、それが崩れ始めると早いのだろう。
それだけ、一気に崩せる土台があるということなのであった。
簿記などで、数字を合わせる時でもそうではないか。
「明らかに数字が違っていると、どこか大きな数字が漏れている」
ということでわかることも多いがV、それが、
「数十円単位」
などという、一つだけの漏れということでは考えられないようなことであれば、プラスとマイナスのそれぞれで、
「少なくとも一件以上の漏れのようなものがある」
ということになるのであろう。
そのことを考えると、
「最初に大きな差異が存在し。それがたまたま自分に都合がいいことであったとすれば、その怪しかが見えてくるのは、時間の問題だ」
と言えるのではないだろうか?
それが、数学的な考えでもあるのだが、精神的な理屈と結びつくことで、
「何が理不尽なのか?」
ということが、分かるというものだ。
そして、おじさんは、
「何かがおかしい」
と思いながら、次の見積もりを冷静に見てみた。
最初の見積もりは、
「どうせ、そんな百万円単位の金なんか、用意できるわけがないじゃないか」
ということで、実際にその内容を検証をしてもみなかった。
それだけ、
「あれでも、献身的な値段なんだ」
と思っていたからだった。
だが、今回は、
「怪しい」
と思って見るので、明らかにおかしいことが分かった。
「千円の本を、千部製作するというのである。それを折半するということなので、普通に考えれば、50万くらいがいいところであろう。すべての経費を含んだ金額というのは、部数に、定価を掛けたものになるはずなので、誰が考えても、百万円が、総額になるはずだった」
ということである。
そんなことは、小学生にだって分かることで、それを、出版社にいうと、
「国会図書館などに置いてもらうのに、金が掛かる」
ということであった。
「いやいや、それも含めての定価なんじゃないですか?」
と迫ると、相手は口をつぐんでしまい、それ以上は何も言わないのだった。
要するに、
「都合の悪いことを言われると、相手は、口をつぐんでしまった」
ということである。
ということは、やはり、
「胡散臭い、怪しい業界なんだ」
ということに他ならないのだろう。
このまま、騙されたふりをして、こっちが利用してやろう。あいつらの批評は、それなりに、勉強になる」
と思ったのだ。
ハッキリしたのは、
「こいつらからは、企画出版以外では、本を出さない」
ということであった。
確かに、あいつらから、
「本を出さない」
と決めると、気は楽だった。
ただ、そんな出版社の批評も、
「マジで聞いていいのだろうか?」
と考えるようになった。
確かに、真面目に聞くのは怖いかも知れないが、あくまでも、この詐欺的な商法は、会社がやっていることであり、社員は、それに従わないと、路頭に迷うということで、しょうがないから仕事をしているのかも知れない。
しかも、
「本を出したいというカモを増やさないと、商売にならない」