交換幇助
「経営がうまくいかなくなると、どこを削るか?」
ということを考えるとすると、それは、
「最後の、本屋へのアタック」
ということであろう。
「どうせ、本屋に持って行っても、並べてくれるわけもない」
と思うと、
「作るだけ作ってしまうと、本屋に売ることもできず、在庫として抱えていくことになる」
ということだ。
そうなると、本は、
「在庫」
となるわけで、在庫は、どこかの倉庫を借りて、そこに保管することになる。
作者には、
「本屋に入れるのは難しい」
ということを説明すれば、最悪分かってもらえるだろう」
という意識からである。
そうなると、これだけ経費が掛かっているのだから、一番の問題は、
「一定の顧客を掴むことである」
というものだ。
これは、会員制の宅配と似ている。
会員制であれば、もし、お客が注文してくれないとしても、
「月会費」
というもので、いくらかは、収益を得ることができる。
逆に、
「月会費というものを持っていないと経営できないくらいであれば、その会社は、ひょっとすると危ないかも知れない」
ということが、従業員の中には思っている人もいないとも限らない。
それだけ、
「バブル」
の時代とは違うのだ。
「いかにして、商品を売るか?」
ということが、次第にピックアップされていく。
正直、
「売れない時代」
ということなので、ある程度、
「人を欺く」
というのが必要だということを考えると、このような商売が、出てくるのは、
「バブルが弾けた」
という、ある意味、カオスで無法地帯だからこそ、ありえることだろう、
「何があっても、驚かない」
これがバブルが弾けて感じたことであろう。
特に、バブルが弾けてから、それまでの、
「神話」
と言われてきたことが、すべて覆されることであった。
たとえば、
「銀行不敗神話」
というものがあった。
これは、
「銀行というのは、基本的には破綻しない」
と言われていたのだ。
しかし、最初に破綻したのは、銀行のような金融機関だった。
「銀行は絶対に潰れない」
と言われていた根拠は、
「危なくなったら、国が助けてくれるからだ」
ということだったのだが、潰れてしまうと、
「国が介入しても、潰れてしまうほど、深刻な状況なのだろうか?」
ということである。
バブルの時代に銀行は、
「企業に対して、これでもかというくらいに、銀行は融資していた」
と言われている。
それも、企業側が、
「貸し付けてほしい」
と思っている融資額を、さらに増やして融資していたのだ。
それは、企業側の、
「事業を拡大すればするほど儲かる」
ということが定説だったからだ。
だから、
「利子が儲けになる銀行とすれば、大目に貸し付けたことで、その分、儲かる」
ということで、たくさん融資する。
それを、
「過剰融資」
と言ったのだ。
しかし、そのうちに、うまく回らなくなってくる。
なぜなら、
「バブルというのは、実態のないものであり、そのため行っているのは、自転車操業だった」
ということである。
バブルの時期であれば、自転車操業、大いに結構だったのだが、バブルが弾けたこの時代になると、そうもいかない。
どこか一つが焦げ付けば、すべてが機能しなくなる。
それが、自転車操業の弱点だった。
バブル崩壊は、その自転車操業全体をコントロールしていた銀行が破綻したのだから、どうしようもない。
それでも、何とか経済が落ち着いたのは、
「吸収合併」
という方法で、乗り切ることができたからだ。
というのは、
「危ない会社を大きな会社が吸収する」
ということであった。
吸収する側も、まだ大丈夫な時に、危ないところを吸収することで、会社自体が大きくなるので、少々の負債があっても、まだ何とか、大丈夫な時に自転車操業における、潤滑油での手当てをすることで、うまく回せるのだった。
自転車操業の罠
自費出版側は、完全に、
「自転車操業」
であった。
実際に自転車操業をしてみると、
「会員がたくさんいて、本を出したいという人が、想像通りにいて、回っている場合はよかった。それなりに収益もあり、さらに宣伝することで、最終的な収益にいたろう」
というのは、無理もないことであった。
しかし、実際には、しょせんは自転車操業で、本を作った人が、
「自分の本が、本屋に並んでいない」
ということを知った時、
「あの会社は怪しい」
と、いまさらのように騒ぎ出したことで、自転車操業に陰りが見えてくる。
しかも、彼らが裁判を起こすともなると、もうどうにもならない。
彼らのやり方、そのシステムが分かってくると、
「これは明らかな自転車操業」
と思うだろう。
そもそも
「自転車操業なんて、バブル期でなければうまくいくはずはない」
と思っているのだから、当然、
「自費出版社系の会社の運命」
というのは、ここまでだということになるのだ。
あっという間に、経営破綻となり、
「破産宣告」
あるいは、
「民事再生の申請」
などということに一気に変わってくるのだった。
それを、弁護士側がいろいろ手続きをすることで、当時、他の業界でも、
「民事再生」
などというものが、どんどん流行ってきていたので、弁護士側も、そのノウハウはわかっていることだった。
しかし、
「民事再生」
というと、何となく聞こえはいい気がするが、結局は、
「倒産」
ということだ。
「倒産したうえで、いかに、その後の再生ということになるのか?」
ということが問題で、この民事再生というのは、いわゆる、昔でいうところの、
「徳政令」
であり、
「債権放棄主義」
と言ってもいいだろう。
そんな状態になると、せっかく本を出した一、さらには、これから本を出そうとしている人が、どうなるかということであるが、ここからが悲惨であった。
というのも、、前述の、
「徳政令」
にあるように、
「出版社に対して権利を持っている人に対して、それを放棄させるかのような方法を取った」
のである。
さすがに、すべての権利を放棄させるということもできないので、法律的にぎりぎりというとことまでくらいに、細工していたのだ。
まず、
「これから本を出そうとしている人はなるべく、他の出版社から出せるように、交渉する」
ということであったり、もし、それができない場合にも、
「応募原稿は返さない」
などということになったのだ。
はっきりとは分からないが、
「著作権は筆者のものだが、所有権が出版社にあるとでもいうのか、どうにもおかしな気がする」
ということであった。
さらに、今まで本を作った人はどうなるか?
当然のことながら、本を出版しても、本屋に並んでいるわけではないので、その本は、
「在庫」
ということで、倉庫に眠っている形である。
このままでいけば、
「焼却処分」
ということになるが、著者に返すということのどちらかであろうが、事もあろうに、出版社側は、弁護士を通して、