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 そのことが言われ出してから、半世紀ほどであるが、それらの発想から考えられたSF小説であったり、マンガなどが、結構流行ったりしたものだ。
 そのことがテーマというだけではなく、脇道であっても、
「そのエピソードがあるから、話が盛り上がる」
 ということも結構あることで、多様化されているようにも感じられる。
 たとえば、テレビドラマで、主役であれば、そのクールは、そのドラマに集中することで、他のドラマに顔を出すのは難しいだろうが、わき役としてであれば、数本掛け持ちも可能だ。
 ただ、移動だけで疲れることのあるだろうから、下手をすれば、
「主役よりも、きつい」
 と言えるのではないだろうか?
 それを思うと、カプグラ症候群というのも、主役級の話よりも、いろいろなところに、フットワークが軽く出ることができるだろう。
 特に、本筋にしてしまうと、今度他で使う時、
「テーマの盗作だ」
 と言われでもしたら、本末転倒である。
 それを思うと、こういう心理学的なテーマというのは、
「脇役球の方が、話としては面白い」
 ということではないだろうか?
 と言われるのであった。
 得に、昭和40年代などの、
「第一次アニメブーム」
 であったり、
「特撮ブーム」
 などでは、よく使われたことだろう。
 特に、
「宇宙人による、侵略モノなどは、テーマに直接かかわる話としては、実に使いやすいものだ」
 といえるだろう。
 そんな時代において、
「家族が入れ代わっている」
 という話が特撮であれば、今度はアニメでは、
「主要国家の大統領や、首相クラスが入れ代わっていて、特に独裁者のような人と入れ替わっていれば、その男は何をやってもおかしくないということで、核ミサイルのボタンを押しかねないので、それを正義のヒーローが、阻止しにいく」
 というような内容のものもあった。
 さすがに、
「国家元首」
 が、
「敵にかどわかされる」
 ということになってしまうと、
「想像以上のパニックが起こるか」
 あるいは、
「静かに、水面下で進行していて、分かってしまうと、もうどうしようもないところまできていて、核戦争による、核戦争になりかねない」
 ということになるのだろう。
 昭和の頃は、
「そんな時代が来ないように、いかに阻止するか?」
 という内容のものが多かったが、平成からこっちは、逆に、
「核戦争が起こってしまい、生き残った人々が、廃墟になった地球で、状況としては、無法地帯というような無政府状態の中で、いかに生きていくか?」
 という、
「サバイバル的な世界を描いている」
 というのも多いであろう。
 そんなことを考えていた高校時代。それはきっと、
「受験戦争」
 という、違う形の戦争に、嫌でも駆り出されることで、逃げることもできず、次第に追い込まれることで、そんな感覚になっていくのだった。
 本当の戦争であれば、
「敵前逃亡、銃殺刑」
 などということになるのだろうが、別に受験に失敗したからといって、命を取られるわけではない。
 確かに、受験に失敗すると、浪人ということになり、大学生になればかったことに、大いなる他人に対しての劣等感を感じ、さらに、受験戦争というものに、負けたという屈辱感もあるだろう。
「劣等感」
 に、
「屈辱感」
 一つでもきついのに、二つが一緒にくれば、自分のプライドもズタズタいされて、病んでしまうということも少なくはない。
 昭和の世代からすれば、
「何を受験に失敗したくらいで」
 というに違いない。
 しかし、それだって、その人たちの、
「無言の圧」
 というものがのしかかってきているからではないか。
 圧を掛けている方は、
「そんな意識はない」
 というに違いない。
 しかし、冷静にその状況を判断すると、
「無言の圧」
 以外の何物でもない。
 それは、
「コンプライアンス違反」
 とは言わない。
「無言の圧」
 なのだから、言葉では、
「頑張れ」
 だったり。
「お前ならできる」
 などと言われたとすれば、これほどのプレッシャーはない。
 相手は、後で、
「お前があんなことを言ったから落ちたんだ」
 と言われても、
「いやいや、励ましただけじゃないか」
 ということで逃げることができるのだ。
「だったら、最初から何も言わなければいいじゃないか?」
 ということになるのだろうが、親であれば、
「子供が受験というのに、何も言わないなんて、こんなに冷たいことってあるのか?」
 と言われかねないのである。
 そうなると、何かを言わないわけにはいかない。
「ただ、励ましているだけだ」
 という、無難なことで、茶を濁すことで、
「後になって、自分が責められないように」
 ということで、何とか逃げようとしているのだろう、
 親としても、
「学費が掛かるのに、そんな大学なんか行かなくてもいい」
 と思っているかも知れない。
 確かに高校で卒業して、働いてくれた方が、学費は掛からないし、一緒に住んでいるのであれば、
「生活費」
 として、お金を貰うこともできるというものだ。
 昔のように、
「いい高校を出て、いい大学に入って、いい会社に入る」
 ということが、一番だと言われていた頃が、
「受験戦争」
 というものを生んだのだろう。
 最近では、受験戦争というだけではなく、スポーツの世界でも、
「スポーツ推薦」
 というものが、どこにでもあるので、そちらも、大会でいい成績を上げるということでの、
「一種の戦争だ」
 といってもいいだろう。
 似たようなものは、昔からあった。
「野球留学」
 などという言葉もあったりして、いわゆる、
「甲子園常連校」
 などになると、各地の地区にスカウトを送り込み、選手のウワサを聞けば、その実力を確認し、野球留学を進めてくるのだ。
 それは、まるで、
「ドラフト会議」
 という制度が始まる前の、
「スカウト合戦」
 というものではないか。
 そもそもドラフト制度ができたのも、この時のような、自由契約であれば、
「いい選手は、どんどん金のある球団に取られてしまって、球団の格差がどんどん膨らんで、プロ野球界が面白くなくなってくる」
 というのだった。
 そして、もう一つあるのが、
「選手への契約金」
 の問題だ。
 複数球団で、注目選手をスカウトするとなると、選手も、
「たくさんの金を提示してくれたところにいく」
 というのが当然の心理である。
 そうなると、各球団で、選手の
「セリ」
 をしていることになり、どんどん、契約金の額が上がっていくということになるのだ。
 いくら金のある球団であっても、限りがある。このまま、どんどん膨れ上がってしまうと、経営すら危うくなってしまう。
 ということになると、球団としても、
「何とかしないといけない」
 と思うようになる。
 そこで決まったのが、
「選手の選択指名制」
 という、
「ドラフト会議」
 だったのだ、
 本場アメリカでも、同じような状況になったことで、ドラフト会議というものが、出てきた。それに、日本球界も、
「乗っかった」
 ということである。
作品名:交換幇助 作家名:森本晃次