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交換幇助

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 小学生の頃というのは、本当に子供だったので、あまり意識をしているわけではないのだが、中学生というと、その変化を、意識できるほどに、下手をすれば、日々成長していたことが分かる世代であった。
 だから、余計に中学の時の同窓会であれば、
「まわりの皆を見ていると、自分の昔を映し出しているかのようだ」
 と感じるのだった。
 中学時代の自分の写真などを見ると、
「これが俺なのか?」
 と思ったと同時に、まわりの変化についていけないほど、
「えっ? お前が中学時代のお前か?」
 というような、支離滅裂な表現をして、変わってしまったということに驚いているということを、一番に感じさせる言い回しであろう。
 そういう意味で、大学生というと、まだまだ子供の意識が強い。
 何といっても、仕事をする毎日と、勉強や部活に勤しむ毎日とでは、
「天と地」
 ほどの差があるということを思い知らされるのだった。
 中学時代、受験勉強の合間。好きになった女の子がいた。
 元々好きだったのかも知れないが、
「異性として見ていなかった」
 ということかも知れない。
 その女の子は、男性からモテるという感じではなかった。
 むしろ、全然目立たない女の子で、下手をすると、
「自分から気配を消しているのではないか?」
 と思えるほどだったのだ。
 気配を消していると、却って目立つという人もいる。
 その気配というのが、どのようなものなのか、皆分かっていることであろうか?
「気配がない」
 ということをいちいち意識して、さらに、その相手を見る人などいるとは思えない。
 それほど、気配を消している人を意識するということは、ほとんどの人をいちいち石井しているということで、
「十人のいうことを、瞬時に聞くことができた」
 という聖徳太子と言われる人の伝説のようではないか?
 聖徳太子というのは、
「実は存在しない」
 などと言われているし、この伝説も
「本当は、十人の話を同時に聞けた」
 ということではなく、
「十人の話を、別々に聞いて、それぞれに、的確なアドバイスができた」
 ということでの逸話ではないかと言われている。
 的確なアドバイスを与えられるだけでも、とても、すごいというのに、そんな、一度に話を聴けるなどということが普通ならできるわけがない。
 よほど、
「聖徳太子という人は偉い人で、このカリスマ性には、逆らうことができないものだ」
 ということを知らしめる必要があったということであろう、
 女王卑弥呼の君臨した、
「邪馬台国」
 というものからそうであるが、
「上に立つ人を神格化することで、国を統治する」
 という考えだったのだろう。
 それが、伝統として残っていたことで、
「大日本帝国」
 というものが、
「天皇」
 を、主君に祀り上げ、神格化することで、世の中を統治しようとしているのかも知れない。
 しかも、
「元寇来襲」
 という事態において、
「一度ならずも二度までも、神風が吹いて、相手を撃退してくれた」
 という話があることで、余計い、
「日本は神の国」
 という定説が生まれ、この神風という言葉を冠し、
「カミカゼ特攻隊」
 などというものが生まれたに違いない。
「戦闘機を操縦し、敵艦めがけて突入する」
 という行為は、他国から見れば分からないだろう。
 兵として志願したのは、
「祖国を守るため」
 というのは、どこの民族でも同じことであり、何も、
「犬死」
 と思えるような死に方をするものではないはずだ。
 それを思えば、
「日本という国は、どこまでが、精神論で、どこからが、正当性のある作戦によるものなのか分からないことで、相手をするアメリカとすれば、恐怖しかなかっただろう」
 と言える、
「ベトナム戦争」
 でも、その相手である、
「ゲリラ」
 というのは、似たようなもので、彼らは、
「殺すよりも負傷者を出させる方に移行した」
 と言われる。
 なぜならば。
「負傷兵を介護することで、数名以上の人が必要となるので、相手の人員を少なくできる」
 という作戦であった。
 それを考えると、確かに頭のいい考え方である。
 相手の兵が死んでしまうと、死んだ人にかまってはいられないということd、それこそ、
「屍を越えていく」
 というのが、当たり前なので、殺してしまうと、敵兵が減らない。負傷することで、その人の救済をすることで、一人の負傷で、数人が離脱することで、相手をする人数が減る。実にうまく考えられた戦法だといえるのではないだろうか?
 高杉は、好きになった人がいても、その人にあまり気づかれないようにしようと、心がけていた。
 直球で、
「恥ずかしい」
 というのが理由だが、実際には、
「仲良くなったとしても、会話がないのだ」
 ということである。
 どんな会話をするのかということになるのだろうが、まだ、高校生くらいであれば、精神的に、
「自分中心」
 ということで、女の子が何に興味があるのかなどということを知る由もなかった。
「だったら、勉強しておけばいいじゃないか」
 と言われるのだろうが、別に勉強したとしても、付き合ってくれる相手がいないのであれば、それも意味がないというものだ。
 ハッキリと、
「俺には彼女ができる」
 という保証もなく、どちらかというと、
「俺に彼女なんてできるわけがない」
 と思っている以上、前もって勉強する気にはなれないのだ。
 それこそ、
「最初から彼女ができる前提で、何やってるんだ」
 と言われるのが嫌だった。
 それは、他の人がいうわけではなく、いうのは、
「自分の中の自分」
 なのである、
 自分の中の自分というのは、
「自分なのだから、何でもお見通し」
 ということで、ごまかしが利くわけもないというものだ。
「お前は、しょせん、小心者で何をやったって、成果がでるわけがないんだ」
 と言われるであろう。
 自分から言われるということは、
「まわりからも言われている」
 というように、誇大妄想してしまい、まるで自分が四面楚歌になっている気がする。
 しかも、その状態を作り出したのは、自分なのである。
 そのことを分かっていることで、次第に、
「変に分かってしまうと、自分でも、どうしていいのか分からなくなってしまうだろう」
 と考える。
 特に高校生くらいの頃は、自分のことを人には言わないし、知られたくないという思いが強くなる。それが、
「自分がまだ子供なのだ」
 という証拠なのだろう。
 高校時代というと、本当に、
「まわりが、敵だらけ」
 という妄想を抱くほどで、一種の、
「カプグラ症候群ではないか?」
 と言われたこともあったくらいだ。
「カプグラ症候群」
 心理学では、よく言われていることだが、
「まわりが敵だらけ」
 とは、まさにこのことなのだろう。
 カプグラ症候群というのは、自分の近しい相手、恋人であったり、家族が、
「悪の秘密結社」
 のような集団に、拉致されるか殺されるかしていて、相手の一味が、その人の替え玉となっているという、いわゆる、
「悪の連中とどんどんと入れ替わっていく」
 という妄想に駆られてしまうことをいうのだ。
作品名:交換幇助 作家名:森本晃次