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「事業を拡大すればするほど、儲かる」
 あるいは、銀行などでも、今では絶対にやってはいけない、
「過剰融資」
 というものを、
「儲かるから」
 という理由で、誰もそのことがいかなる不幸をもたらすかということを分かっていなかった時代なのである。
 今であれば、
「そんなこと、お偉い先生が集まって、誰も気付かないのか?」
 というような、小学生的な発想に近いことであるはずだ。
「銀行は絶対に潰れない」
 と言われ、なぜかと聞くと、
「国が助けてくれるから?」
 ということになるのだが、これだって、おかしな話で、ある意味、当時から、
「国の借金も結構あったはず」
 の時代ではないのか?
 だから、昭和の終わりに慌てて、果てしないと言われたほどの借金のあった、
「国鉄」
 などの、いわゆる、
「三公社」
 を慌てて、民営化し、国と切り離すことで、リスクヘッジしたくらいの時代ではないか?
 そんな時代を思い起こせば、あの頃は、給料、ボーナスが、どんどん上がっている時代だったのあった。
 バブルというのが、どういう時代だったのかということであるが、それ以降というと、急激に時代も変わっていった。
「男女雇用均等法」
「個人情報保護汪」
「ストーカー規制法」
「コンプライアンスの問題」
 などと、昭和の頃のことを今の人間が、昭和の人間からすれば、今の人間が、
「まず信じられない」
 ということになるであろう。
 そんな時代では、
「女性に年齢を聞くことはもちろん」、
「結婚しないの?」
 さらには、
「今日もきれいだね」
 というようね、世間話でも、セクハラになったりする。
 だから、会社では、上司が部下に命令する場合も、恫喝すると、それは、
「パワハラ」
 ということになる。
 要するに、
「明らかに優勢な立場にある相手に対し、その立場を利用して、命令するというのは、仕事の範疇を離れるようなことであれば、すべて、パワハラになる」
 ということである。
 これは、家族関係においてもそうではないだろうか?
 子供を教育する立場の教師でさえ、廊下に立たせるだけで、
「体罰」
 と言われるのだ。
 だから、親が子供に対して、
「親という立場を使って、命令したりすることは、パワハラになる」
 ということであろう。
 何しろ、
「しつけ」
 という都合のいい言葉を使えば、
「体罰も許される」
 ということになるのだ。
 それは、本当にありなのだろうか?
 要するに、その境目がどこにあるか?
 ということである。
 例えば、痴漢犯罪でも、女の子が、痴漢されているように見える場面で、横から男が出てきて。女の子の近くにいる男を、
「あんた、ちょっと次の駅で降りろ」
 などと言われて、言われた男がビビッて降りると、
「お前、痴漢していただろう?」
 と言われる。
 男としても、していないとしても、その証拠がないだけに、
「していません」
 といっても、その言葉に力はない。
 そして、さらに、それを聞いた男は、
「お前舐めとんか。俺のオンナに何しやがる」
 といってくると、男はビビッてしまって、もう何も言えなくなる。
 そう、いわゆる、
「美人局」
 というものだ。
 女が、
「痴漢されました」
 といって警察にいけば、いくら黙秘していても、最終的には、やってもいないことをやったということにされてしまう。
「そうなるよりも、男のいうことを聞いておこう」
 ということになると、男は完全に言いなりである。
 一度金を渡すと、ずっと食らいついてくるから厄介だ。
 そういう意味で、男女平等といっても、今度は女性が強くなることで、治安が一気に悪くなってしまうことだって結構あるのだ。
 それを思うと、
「過ぎたるは、及ばざるがごとし」
 ということになるのだ。
 要するに、男というものは、女に対して、完全に立場が逆転してしまう。
 これは男女間においてもそうだが、
「コンプライアンス」
 という問題からも、
「上司と部下」
「親と子」
 という。それぞれに優劣のハッキリとしている立場の場合にも言えることだ。
 上司が、
「会社で、女子社員や、部下との会話もまともにできなくなる」
 というもので、昔を知っている人にとっては、これほど大変なことはなく、劣等的な立場にいる人にとっては、気が楽になるというものではないだろうか?
「せめえ大学では、そんなことがないようにしたいものだ」
 と、部員の上の人は思っていた。
 そういう意味で、今回の合宿は、
「気楽にできる」
 ということをモットーに考えた。
「最低ラインの上下関係だけはあっても、それ以上のことはない。男女関係においても、優劣においても、基本はないものだ」
 ということであった。
 今回の参加メンバーは、約15人くらいと、少なくはない。もちろん、強制したわけではない。
「これる人だけくればいい」
 という話にしていたのに、
「やっぱり、差別的なものや、強制がなければ、自然と人は集まってくるものなのかも知れないな」
 と、幹部は考えた。
 ただ、この参加人数が多いのは、部員の中で、横のつながりがあったからだ。
「あの人がいくのなら、私もいく」
 ということになったのだろう。
 しかし、その中に、
「無言の圧」
 のようなものがあったのかどうかということは、あくまでも本人たちにしか、分からない。
 実際には、本当に、差別がなかったのかどうか、
「圧力の存在はどうだったのか?」
 ということに関しては、誰にも分かるものではない。
 そういう意味では、
「本人たちにも分かっていないのかも知れない」
 と思うと、それだけ、年功除雪のような、上下関係は、無意識になるほどに、受け継がれてきたものなのだろう。
 育ってくる環境で、
「コンプライアンス」
 ということは言われ続けてきたのだろうが、遺伝子の中などに、脈々と受け継がれてきたものが、どこかで、無意識に出ているということはないともいえない。
 それは、当たり前のごとく、出てくるのだとすると、本人たちに意識がないだけに、いくら言葉で、
「コンプライアンス」
 ということを唱えても、どうしようもない。
 特に学生は、社会人のように、会社に、
「総務部」
 があって、会社の中での規律を正常に至らしめる部署がある場合は、社員一人一人が意識せざるを得ないのだが、学生のように、
「生徒一人一人の自主性」
 ということになると、なかなかそうもいかないだろう。
 もちろん、中には、ハラスメントをまともに意識してしまって、どうしていいのか分からないという人もいるだろう。
 しかし、そうでなければ、どうしていいのか分からない状態であれば、どのように対応すればいいのか、疑問でしかないのだろう。
 遺伝子によるものであったとすれば、
 ひょっとすると、その人には、
「先祖代々、自分が優越感に浸れるような相手がいて、逆にその相手の先祖も、同じように、その人の祖先を天敵として、ずっと崇める形になっていたのかも知れない」
 ということは、
「永遠にその人から逃れられない」
 という過去を持っているのだとすれば、それはまるで、
「動物の天敵」
作品名:交換幇助 作家名:森本晃次