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 この結論に達したのは、大学3年生くらいになってからだろうか?
 そ-の頃になると、大学でも忙しくなってくる。
 専門授業やゼミなどが忙しくなり、それが終わると、就活に入る。
 大学入学時代の、
「友達と言っていた連中も、それぞれに必死になる。自分だって同じではないか?」
 ということである。
 大学で最初に作った友達、何人くらいだっただろう。
 2年生になってみると、
「あの時どうやって友達を増やしたんだっけ?」
 と考えてしまう。
 たぶん、自分一人だけでは、できるわけもない。
「友達の友達は、みな友達だ」
 というようなテレビ番組が昔あったらしいが、まさにその通り、
「友達の友達を友達にして、まるで、鼠算のように増やしていく。この増やし方は、鼠算というよりも、ねずみ講と言った方がいいかも知れない」
 というのであった。
 何せ、
「友達の友達」
 なんだから、憶えれるわけもない。せめて、朝の通学で会った時、毎朝の挨拶として、
「おはよう」
 という言葉を交わすだけでも、それでも友達だといってしまえば、友達なのだ。
 それを思うと、
「友達の定義って何なのだろう?」
 と考える。
 大学2年生の時というと、まだ、SNSなどというものに、嵌っていたわけではないので、意識はないが、それから数年経って、ツイッターなどというものをするようになってから、
「フォロワー数を気にする」
 という人の気が知れない。
 と考えるようになってはいたが、実際には、気にしないわけでもなかった。
 ただ、
「ツイート数の方が気になる」
 という感覚でしかなかったのだ。
 一年生の時に増えた友達も、二年生になってくると、
「挨拶すらしない」
 という人も増えてきた。
 その頃になって。
「友達って何なのだろう?」
 と思うようになると、
「真の友達って何なのだろう?」
 と感じた。
 そこで思ったのが、
「趣味や考え方を共有できる人がいないんだ」
 ということに気付くと、その理由は、すぐに分かった気がした。
 一つのことが分かってくると、氷塊してくるのが早いようで、
「なるほど、大学のキャンパスに根を下ろして、サークル活動などというものをしていないからではないか?」
 と感じたのだ。
 確かにそうだ。
「大学のサークルで、興味のあることを共にしていて、何かを目指すということがあれば、最高ではないか?」
 ということであった。
 体育会系であれば、
「大会に出場し、優勝する」
 という明確な目標を持つことができるだろう。
 しかし、高杉は、スポーツ音痴で、スポーツに興味を持つこともなかった。
 高杉が興味のあることといえば、
「何かを作る」
 ということであった。
「絵や、工作は、小学校の頃から苦手で、音楽などは、音符が出てきた時点で、挫折したものだ」
 と思っていた。
 そうなると、本というものが好きで、時々やっていた読書が好きだったことを思い出した。
 思い出そうとしなければ思い出せないというのは、
「読書が好き」
 というよりも、
「読書をしている時の、贅沢な気持ちが好きだったのだ」
 というものだった。
 安楽椅子のようなものだったり、できれば、ハンモックのようなところで、読書ができれば素晴らしい。
 と考えていたのだ。
 だから、読書ということよりも、
「読書をする環境が整っていることが好きだった」
 といってもいい。
 だから、前から、
「こんな本を作る人になれればいいな」
 と思っていた。
 それも、製本というわけではなく、読者を物語に引き込むような話をつくる、
「小説家」
 という職業である。
 だが、それも、おじさんの話を聴いた時点で、正直、
「紙媒体では、望むだけ無駄なんだ」
 と考えるようになった。
「自費出版社系の詐欺」
 というだけではなく、
「紙での出版自体が、すでに時代遅れである」
 という、もっと切実な問題が降りかかってくるのだった。
 そういう意味でいけば、
「紙媒体での出版」
 という時代の、
「世紀末」
 ということで、あの、
「自費出版社系の詐欺」
 という出来事があったと思うと、この社会問題も、
「一つの時代の終結」
 ということで、
「時代を反映している」
 といっても、いいことであろう。
 そんな時代の流れの中で、
「小説を書く趣味なんて、もういいや」
 と思って、書くのを辞めていく人も多いだろう。
 しょせん、バブルが弾けた時、
「何でもいいから、趣味を持ちたい」
 という安易な理由から、この世界に入った人は、さっさと他の趣味に走ったことだろう。
 他の趣味でも、この時のような、
「自費出版社系の詐欺事件」
 というものがなかったといえるだろうが。
 当時あれだけ、サブカルチャーに走った人がいて、むしろ、
「小説を書く」
 などという趣味は、明らかに少数派だったはずだ。
 確かに、一人が本を出そうとすると、その単価は大きいだろう。しかし、だからといってそれがすべて儲けにつながるわけではない。
 その時には思ってもみなかった、
「作っても、売れずに残ったり、万が一、本屋に出たとしても結局、秒で返品されるだけで、どうすることもできない」
 というのが、その傾向だったりするのではないだろうか?
 それを考えると、
「他の趣味でも、詐欺的なことがあって、騙されたりした人も多いのではないだろうか?」
 と感じる。
「興味のないことには、あまり関心がない」
 というのは、それはそれで仕方がないことである。
 それに対して、
「興味をもて」
 というのは、無理強いであり、昔の大人が言っていたような、
「新聞や、ニュースを見ろ」
 といっても、実はおかしなことである。
 なぜなら。
「新聞やニュースの方が、よほど、政治体制のどれかに寄っていて、正論とはほど遠い」
 と言えるのではないだろうか?
 今の時代に強要するということは、
「会社の上司、親などの立場的に強い人であれば、それは、パワハラという、コンプライアンス違反になるのだ」
 ということである。
 そんな中において、会社だけではなく、家庭でも、
「ややこしい人もいる」
 という話を聴いたことがある。
 というのは、
「老年期の、引きこもり」
 というのである。
「50歳以上の健康な男性が、仕事もせずに、家で引きこもっている」
 ということである。
 これは、
「80歳くらいの親が、息子を食わせる」
 ということになるのであり、当然働けないので、
「年金に頼る」
 ということになるか、それくらいの年齢であれば、当時の定年の年齢である55歳というと、まだ、バブル時期、ギリギリだったのではないだろうか?
 もし、バブル崩壊の後であっても、どうせ間抜けな政府に、そこまで素早く、
「年金を減らせる対応」
 などできるはずもない。
 いわゆる、
「お役所仕事」
 というのは、昔から今に掛けて、ずっと同じことだったと言えるだろう。
 そのせい、いや、おかげという皮肉を言ってもいいのか、その頃に年金が確定している人は、
「今まだ、年金を貰っていない人」
 に比べれば、どれほど、多く貰っているということであろう。
 何しろ、
作品名:交換幇助 作家名:森本晃次