誰が一番得をするか?
「光秀殿が兵を起こせば、我々も一気に京に攻めこみます」
という手筈であったとすれば、
「光秀、元親連合軍であれば、織田家臣団と連合しても勝てる」
と思ったのかも知れない。
もちろん、今まで自分の味方であった、
「摂津、大和の大名が味方をしてくれれば」
というのが前提であろう。
しかし、実際には、長曾我部軍が動いた形跡もなく、さらには、
「山崎の合戦」
では、摂津、大和の大名である、
「中川清秀」
「高山右近」
「筒井順啓」
などが味方をしてくれないどころか、
何と、娘婿である、
「細川忠興」
までもが、味方をしないということになれば、兵力の上でも、勝ち目がなかったといえるだろう。
さて、最有力と言われた長曾我部であるが、近年でよく言われているのは、まったく別の発想からである。
しかも、これは、
「どうして誰も今までそのことを言わなかったんだ?」
というほど、信憑性としてはあるものであり、
「歴史の盲点」
だったのか、それとも、
「口にしてはいけない」
という
おとぎ話や神話などでよく言われる。
「見るなのタブー」
と言われるものではないだろうか?
ということであった。
そう、ミステリーであったり、殺人事件などを題材にした話で、
「謎解き」
という場合に、最初にまず何を考えるかということである。
そして、その中にある
「動機」
という重要なことになるのだが、
「動機」
という意味での鉄則というと、
「一体、この事件を引き起こしたことで、誰が得をするか?」
ということではないだろうか?
「本能寺の変」
というのも、
「謎が多すぎる」
ということで、
「歴史最大のミステリー」
といってもいいだろう。
だったら、ミステリーとして、
「誰が一番得をするか?」
ということを、
「なぜ、誰も考えないのか?」
ということである。
ただ、実際には、誰もが考えることなのだろうが、
「それを許さなかったのも、歴史だ」
と言えるのではないだろうか?
なぜなら、
「歴史というものは、その、時の権力者によって、都合よく改ざんされるものだからである」
徳川政権になると、豊臣政権のものは、すべて取り壊されたり、豊臣の武勇伝なども、若干、歪められて伝えられたりしているだろう。
そして、その徳川政権も、明治新政府によって滅ぼされた時。それまでの体制なども、ほとんど変えてしまったではないか。
しかも、それまでは、武家社会。
つまりは、
「封建制度」
の時代だったのだ。
しかし、明治維新によって、今度は、
「立憲君主」
という国に代わってしまった。
それにより、
「天皇神格化」
などという教育方針で国が成り立っていったことで、それまでの武家政治や、さらには、かつての歴史による、
「天皇と敵対した勢力」
というものは、あまりよくは描かれないようになった。
明治維新は、歴史を変えるには、あまりにも急激すぎたのか、
「優秀な人材が、次々に暗殺される」
という、混沌とした時代だったのだ。
「坂本龍馬」
「大久保利通」
などが、そのいい例だったのではないだろうか?
信長暗殺の、ある意味一番の黒幕とされているのは、今では、きっと、この人物であろう。
そう、
「信長暗殺で一番得をした男」
それは誰かというと、
「羽柴秀吉」
この人の他にいるであろうか?
この発想は、考えてみれば、一番考えられる発想である。
「犯罪が起これば、その動機で一番感がられるのは、誰が得をするか?」
ということである。
ということを考えればおのずと分かってくる。
しかし、この事件の場合、
「なぜ、その発想がすぐに出てこなかったのか?」
というと、いろいろ理由は考えられる。
一番とすれば、
「明智光秀が、京へ向かうか、それとも、備中に向かうかということを迷った」
ということから、
「衝動的な犯行」
というのが、一番だからだ。
それともう一つは、光秀側が毛利に行こうとした密使を偶然に捉えたということは、
「それまでは、秀吉は知らなかった」
ということになる。
と考えるからだ。
だが、それらのことも、
「すべてが偶然だ」
ということになってしまうと、
「だだの偶然」
といってしまうと、都合がよすぎるともいえる。
光秀が読んだと言われる担架だって、ただのこじつけなのかも知れない。
あれを、
「最初から計画していた」
ということであるという大前提があるから、そもそも、
「黒幕説」
などという考えが出てくるからだ。
あれが衝動的であれば、もし企んだ人間がいるとして、こうもあっさりと、光秀がやられてしまうというのもおかしい。
本当に、最初から計画しているのであれば、光秀ほどの秀才であれば、
「せめて、摂津や大和の武将くらいは、自分の味方についてくれるという確約があってこその、クーデターでなければいけないはずだ」
ということである。
これは、少数派なのかも知れないが、あくまでも、比較にならないかも知れないが、
「石田三成」
との比較を見る人がいるからではないだろうか?
三成は、確かに、内政的なことには、長けていただろう。
「奉行」
としては、確かに優秀だったかも知れない。
しかし、実際に、
「戦をする、武将の大将としては、どうだったのか?」
ということになると、難しいといってもいいだろう。
確かに、言われていることは、
「武闘派の武将たちから、信用されていない」
ということで、自分への襲撃事件の責任を取って。佐和山に蟄居させられたということもあった。
しかし、実際には、関ヶ原の合戦で、8万もの大軍を集められたのは、
「豊臣家の名前」
というだけでは、難しかったかも知れない。
ただ、そのうち、ほとんどの兵は動いていない。総大将だったはずの、毛利の軍は、吉川、小早川を含めて、ほとんど、本戦では、戦をしていないといってもいい。
それどころか。小早川軍の1万は、こともあろうに、裏切ったではないか。しかも、敵陣から、1万が攻めてきたわけではなく、自陣から、1万が相手に着いたとすれば。一気に劣勢に回るのは当たり前のこと、いくら相手が、
「関東を束ねる大大名」
といっても、ここまで、
「始まる前から決まっていた」
という戦も珍しいといってもいいだろう。
それを考えると、三成は、敵ではなかったのだろう。
それでも、最初は確かに推していた。
それは、自分のまわりの参謀クラスの戦上手がいたからだ。
「大谷刑部」
「島左近」
という、歴戦の将がいたことで、戦となったといってもいい。
ただ、三成という男、どこか、戦に関して甘いというか、戦のやり方を知らないというのか、島左近が考えた、奇襲作戦のそのすべてに反対している。中には、
「家康暗殺計画」
もあったらしいが、頑固として、三成は反対したという。
そういう意味では、島左近は、
「まるで、天皇に作戦を一蹴され、自殺行為とも言われ、戦に望んだ楠木正成の生まれ変わりのようだ」
と言われたとしても、無理もないことだろう。
作品名:誰が一番得をするか? 作家名:森本晃次