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 それだけ、世の中を見る角度が違ってきたという意味で、
「大人の階段」
 というものを昇るには、反抗期というものは、必ず必要だといっても過言ではないだろう。
 基本的に、反抗期というのは、
「親に対してのものだ」
 というのが、子供としての感覚であるが、客観的に見ると
「大人全般」
 に対してだと思えることだろう。
 特に、そのターゲットである、親の方が、
「子供の反発は、大人全般に対してだろう」
 と、特に自分の子供に対して思うのだった。
 それは、親にとって、
「自分だけに反発されていると思いたくない」
 という思いがある。
 もちろん、子供を教育しないといけない立場で、自分だけに反抗しているのであれば、本末転倒になってしまって、
「子供を教育する」
 などということは、土台無理なことなのだ。
 ということになるのだろう。
 だから、親としては、
「子供の怒りの矛先は、自分ではなく、大人全体に向けられるものだ」
 と考えた方が、気が楽だし。
「思い切ったことができる」
 と感じるのだろう。
 それを思うと、
「大人というのは、子供に対しては、理不尽と世間一般では考えるようなことでもやってしまう」
 と言えるのではないだろうか。
 それは、自分が親だということへの自信であったり、理屈にしてしまいたいということだったりになるに違いない。
 そういう意味では、
「親は、大人になり切れていない」
 と思うのだ。
 だからこそ、
「なるほど、親は大人になり切れていないので、自分に自信がないんだろうな」
 ということである。
 自分でも、
「本当に大人になれたのだろうか?」
 と感じるからこそ、
「そりゃあ、子供の頃に、大人になったら」
 という思いを抱いていたとすれば、覚えていたとしても、
「それはいまではない」
 と思うのだろう。
「じゃあ、親は子供のくせに親になってしまったのか?」
 ということであるが、それもありえることだろう。
 何しろ、これだけ、
「できちゃった婚」
 と呼ばれるものが蔓延っているのだから、それも当たり前のことである、
 下手をすれば、
「子供なんか欲しかったわけはないのに、相手が、結婚しようと言ったことで、女も、じゃあ結婚となるのだろうが、そんな時の親って、仕方なく、責任があるからという理由で、結婚した」
 ということなのだ。
「この場合の責任って、一体何なのだ?」
 ということであろう。

                 歴史と時系列

 そんな歴史を、
「結果から見るのか?」
 あるいは、
「時系列から見るのか?」
 ということを考えると、実に興味深いといってもいい。
 というのは、歴史を結果から判断するということは、ある意味、結果から原因を探るということである。
 それは、
「事件というもの、そのものに焦点を当てる」
 ということになる。
 しかし、
「時系列から見る」
 というのは、歴史というものを、
「わかっている最初から見ていく」
 というもので、今の歴史の授業の在り方だといってもいいだろう。
 これには、一長一短があある。
 そもそも、歴史というのは、
「出来事や事件が重なり合うことで、大きな歴史を表している」
 と言える。
 だから、歴史上の出来事などは、
「いきなり突発的に起こった」
 ということは、基本的にありえない。
 少なくとも、その事件として挙げられている一連の流れの前に、その前兆のような、一見事件とは関係のないようなことが潜んでいる。
 といってもいいだろう。
 例えば、誰かと誰かが、一騎打ちをしたとして、その直接の原因になったことはあるだろう。
 例えば、
「歴史上の一番の謎」
 と言われている、
「本能寺の変」
 でも、そうである、
 あまり歴史に詳しくない人であれば、
「本能寺の変といえば、明智光秀が、信長を暗殺した事件。その原因は、信長が光秀を苛めたから」
 ということくらいしか知らないだろう。
 歴史に詳しい人からしてみれば、
「あくまでも、それは、表面上だけのことであって、戦国時代の歴史、そして、そこから見えてくる信長、あるいは光秀の考え方が問題になってくる」
 ということになる。
 特に信長など、
「一般に言われているような、残虐な性格ではない」
 ということである。
 それはあくまでも、
「延暦寺焼き討ち」
 であったり、
「城を総攻撃をしたことによって、皆殺しにした」
 ということからの、勝手なウワサであり、特に、その性格を決定づけたといってもいい、あの狂歌、ホトトギスの歌がいい例であろう。
「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」
 という句からの連想が大きいのだろう。
 信長という男は、そんな理不尽な性格ではない。
「延暦寺焼き討ち」
「城の総攻撃」
 の場合も、必ず、その前に、降伏勧告をしているのだ。
 特に延暦寺などは、坊主が、
「酒を食らったり、女を抱いたり」
 という酒池肉林をし、自分たちの仕事を忘れ、堕落し。しかも、そんな状態で、政治に口を出したり、敵対勢力に加勢をしたりと、いう体たらくを見ると、
「延暦寺は寺ではない。あれは城だ。城を攻めて何が悪い」
 ということになるのだろう。
 特に信長は、一向宗にも苦しめられている。
 そんなことを考えれば、敵対勢力であれば、宗教団体であっても、
「敵は敵」
 焼き討ちしたくなる気持ちも分からなくもない。
 しかも、ちゃんと警告もしているのだが、騙し討ちではない。
「警告に従わなかったくせに、何の防備もしていなかったというのは、延暦寺側からすれば、これほど、世の中を舐めているといっても過言ではない」
 と言えるだろう。
「いくら下克上と言っても、まさか、御仏のいる寺を襲うことはない」
 という思い上がりが引き起こしたことだとは言えないだろうか?
 さらに、皆殺しという考えも
「武士であるなら」
 あるいは、
「歴史を知っている」
 というのであれば、当たり前のことである。
 というのも、
「源頼朝と、平清盛」
 との間の因縁を知っていれば、誰だって、皆殺しを考えるであろう。
 平治の乱で、平清盛方が、源義朝方を打ち破り、源義朝の子供たちが捉えられた。
 頼朝が清盛の前に差し出された時、母親の命乞いがあったことから、頼朝の命だけは助けるということで、伊豆に流すということをしてしまった。
 さらに、義経も、鞍馬寺に預けるなどということで、少なくとも、この二人が生きていたことで、清盛亡き後の平家は、この二人に滅ぼされることになったのだ。
 そんな歴史を知っていれば、
「禍根を未来に残さない」
 ということは常識となり、
「皆殺しもやむなし」
 ということになったのだろう。
 それを考えると、信長の所業も、無理もないことだったといえるだろう。
 そういう意味で、
「武家の世界というのは、それだけ、残酷であるといえるだろう」
 何といっても、平治の乱の前の保元の乱で、敗れた側の、武士は皆処刑されたが、公家の命は助けられたというではないか?
 その頃は、武士と公家で、決定的な上下関係があったので仕方がないだろうが、あまりにも極端だといってもいいだろう。
作品名:誰が一番得をするか? 作家名:森本晃次