誰が一番得をするか?
「親からだったり、大人による無言の圧のようなものがあり、それが、いかに対応すればいいか?」
ということになり、結局、反発から見なくなる。
もっとも、本当に必要なものなら、何が大切なのか、分かりそうなものだと考える。
「親に分かるのであれば、私にだって」
と思うことであろうが、実際に読んでみると、きついばかりで、しかも、それだけのために時間を奪われる。
これは、結果的に、
「時間の無駄だ」
としてしか思えないのだった。
だが、これがスマホによる、
「電子新聞」
のようなものであればどうだろう?
一番大きいのは、
「見たい時に見ることができ、しかも、かさばったり、人の邪魔になることはない」
というものだ。
特に、昔の通勤ラッシュなど、ドラマで見ていると、本当に、ぎゅうぎゅう詰めの状態でもなければ、スーツを身にまとったサラリーマンなどが、新聞を四つ折りくらいにして、器用に、片手にそれをもって、もう片方の手は、つり革を持っている。
実に、朝の風景としては、いかにも、
「働きバチ」
という雰囲気が漂っていたことだろう。
しかし、今の時代は、新聞を見ている人など、まずいない。
ほとんどの人が、スマホ片手に、上手にスマホの画面を操作している。器用に、指で文字をタップしているのだが、今から思えば、本当はあまり気持ちのいい景色でもない。
しいていえば、昔のように、新聞が邪魔になっているということではないのがマシだったのだろう。
それでも、昔を知っている人は、
「そんなに皆がひしめき合っているように見えるけど、自分たちはそんな感覚はなかったかな?」
という。
「どういうことですか?」
と聞くと、
「あれが当たり前の時代で、朝のよく見られる光景だったので、別に嫌だとは思わなかったかな?」
というのだ。
さらに、
「これは、感覚がマヒしていたからなんだろうけど、感覚がマヒするくらいでなければ、毎朝の通勤電車には乗れないよ。だから、あれも、時代の流れの一つの風物詩。そう思えばいいんじゃないかな?」
ということであった。
「大人って、変なところで妥協するんだな」
と、ゆずはは感じていた。
「本当は、その時は、子供心だったのだろうが、嫌だったはずなのにな」
と思った。
そういえば、
「大人って、すぐに棚に上げるな」
と感じることが多かった。
特に、大人になってからというもの、子供ができて、その子がまず思うことは、
「親にだって、子供の頃はあったはずなのに、その時のことを忘れてしまったかのように、そうして、あんなに子供に説教ができるんだろう?」
と思った。
親が子供に説教するというのは、今も昔も変わらないだろう。
しかも、
「その理屈は同じではないか?」
と思うのだが、その内容までは分からない。
「親だって、子供の頃には理不尽だったはずだ。だから、皆、自分は大人になったら、自分の親のようにはならないぞ」
と思うはずではないか。
それなのに、あのヒステリックな怒り方は何なんだ? あんな怒られ方をするというのは、
「子供としても理不尽だ」
と感じるのだ。
大人が子供を叱るというのは、自分のストレスを子供にぶつけているだけのことではないか?
と思うのは当たり前のことなのだが、自分が子供であるがゆえに、その本心であったり、怒りの原点は分からない。
これは、
「大人だから」
というわけではなく、
「親子だから」
と思ってしまうからだろう。
だが、そう考えた時、
「親子の絆は深い」
などと言われることが多いが、そもそも、
「その親子の絆って何なのだろう?」
と考えさせられる。
「親子だから、何だというのだ? 確かに、親は子供産んだのだから、育てなければいけないということになるのだろうが、親子だからといって、子供は親の分身ではないのだ。あくまでも、子供は子供、親は親ということである」
と言えるのではないだろうか?
親子だって、皆が皆同じ考え方を持ってるわけではない。
持って生まれたものだってあるだろうし、逆に親の遺伝子を受け継いだかのように思う子供であっても、教育の中で、説教じみた話になった時、毛嫌いする気持ちから、逆に、気持ちが反発してしまうことだってあるだろう。
それを思うと、
「子供が大きくなるにつれて、考え方が違ってくるのは当たり前だ。それを反発心だというのだろう」
ということである。
ゆずはは、
「大人が嫌いなのか? それとも親が嫌いなのか?」
ということを分からないでいた。
「果たして、どっちなのだろう?」
と考えていたが、それはどうやら、片方だけというよりも、
「どっちも嫌いだ」
ということに間違いはないようだが、ただ、その、
「違い」
ということに、ランクというか、レベルという意味での違いと、そもそもの、
「質の違い」
というものが、それぞれ存在しているといってもいいような気がしてくるのだった。
大人というものを考えた時、
「少しでも理不尽さがあれば、そこが違いだと思い、その理不尽さに、吐き気すら感じることになる」
しかし、それは、感情的なものではない。だから、辻褄が合ってくれば、そこを嫌に感じる理由がないとなると、容認できてくるのだった。
しかし、親というものに対しては、まずは、
「感情的な思いが先にくる」
ということになる。
理屈は二の次なのだ。
それが、
「自分の子供の時のことを棚に上げて」
と、
「親だからこそ、自分と同じ考えだったに違いない」
という思いを抱くのだ、
これはつまり、親が思っていることと同じで、そう考えると、
「親は自分が子供の頃のことを忘れてしまったわけではなく、覚えているからこそ、今の子供が、どんなことを考えているかということが分かっていて、わざと反発させるように思っているとすれば、どうだろう?」
と考えるのだ。
そう考えると、
「大人に対しての考えと、親に対しての考えというのは、感情が入るか入らないかということの違いだろう」
と思った。
ここでいう感情というのは、あくまでも、
「親だから分かる」
あるいは、
「子供だから分かる」
ということに違いない。
それを考えると、
「大人と子供」
「親と自分の子」
というものには、それぞれに結界のようなものがあり、そこで問題になる第一点というものが、
「感情というものである」
と言えるのではないだろうか?
親というもの、そして、子供というものは、相手のことを分かるから余計に反発し合っているくせに、当の本人には分かっているはずのことなのだが、実際にはよくわからないものだといっても過言ではないだろう。
子供の頃に、
「誰もが訪れる」
つまりは、
「避けて通ることができない」
と言われる、
「思春期」
というものがあるが、その時代に平行しただったと思うが、もちろん、そこに個人差はあるとして、存在するのが、
」反抗期」
というものだ。
人によっては、
「自分には、反抗期はなかった」
という人もいるだろうが、それは、目立たなかっただけで、自覚に近いものはあったはずだ。
作品名:誰が一番得をするか? 作家名:森本晃次